かつて東トルキスタン共和国という国を中央アジアの諸民族の中で唯一もち、トゥーランイズムと呼ばれる凡トルコ主義の雄であったウイグル民族が、ソ連と中国の密約で2 度目の国家を失ったのは第2 次世界大戦終戦直後のことだった。
その後、中ソ関係悪化と、新疆ウイグル自治区内(自治区とは名ばかりで実際は漢民族が実権をもつ)の地下資源発見により、地政学的にも戦略的にも重要性が増し、ウイグル民族への支配は強まった。独立運動への弾圧だけではなく、ウイグル人地区のロプノールでの核実験場となり、ウイグル人の苦難の時代は続いた。
だが、ソ連崩壊により、中央アジアに突如として、カザフスタンやウズベキスタン、キルギス、タジキスタン、トルクメニスタンといった、ウイグルと同じチュルク系民族の国家が誕生した。当然、ウイグルでも自分たちの国家が欲しいという気運は自然とわき起こった。
しかし、中国がそれを許すはずはなかった。この頃から、開発の名の下に新疆ウイグル自治区への漢民族の大流入が始まる。独立どころか東トルキスタンというかつての自分たちの栄光の名称を口にすることすら禁じられた。
こういった状況で、中国と国境を接するカザフスタンではウイグルは舵取りの難しい国家的問題となった。かつての東トルキスタンの領域の一部はカザフスタンにもまたがっており、ウイグルの独立は、カザフスタンの領域にも波及する可能性がある。
また、戦略的には中国がウイグル独立阻止を口実にして、カザフスタンへの侵攻することも可能性としてないわけではない。実際、国内最大の都市アルマトイから、砂漠の真ん中のアスタナに首都を遷した理由の1つが対中国であるといわれている。中国との対立を避け、パイプライン等経済的結びつきを強める方がカザフスタンにはメリットがある。しかも、中央アジアには現政権に脅威を与えるイスラム原理主義の問題もあり、2005 年には上海協力機構を中国、中央アジア4カ国、ロシアの国々により結成する。カザフスタンはウイグルの言語教育や文化を保護する民族優遇政策をとりつつ、ウイグルの独立運動には支持しないという立場をとった。
実際、カザフスタンでも中国国内のウイグル独立運動はタブーとなった。ただ、ここで間違ってもらいたくないのが、ウイグル民族は独立のための運動の手段として自爆攻撃を選んだことはないということだ。「自分を殴ろうとする相手の拳にキスをしなさい」非暴力を哲学とするウイグル民族には、そもそも自爆攻撃という言葉や概念すらなく、彼らは本当に平和的な解決を望んでいる。
しかし、ウイグルを取り巻く状況は決して良い方向に進んでいない。中国の対ウイグル民族政策に諸外国で真っ向から異を唱える国がないどころか、激烈を極めた2008年、平和の祭典であるオリンピックが北京で開かれ、世界の主要国は中国の現政権の繁栄を讃えた。
西欧とイスラムという対立構造が生まれたのは第2 次世界大戦後だ。ヨーロッパのユダヤ問題を解決するためにパレスチナにイスラエルという国を作り、中ソ対立のショックアブソーバーとしてウイグルはソ連から中国に差し出された。
映画『ウイグルからきた少年』では、ウイグルの困窮をフェルガナ地区のイスラム原理主義が利用しようとして自爆攻撃を企てたというストーリーになっている。中央アジアでは内戦が続いたタジキスタンや、クーデターで政権が転覆したキルギス、そして圧倒的な現政権への批判を背景にしたウズベキスタンでは自爆攻撃が起こりえる要素を抱えるが、カザフスタンでは自爆攻撃が全く起こりえない万全の状態にある。
しかし、各国とも9.11 以後アメリカによる対テロという名の戦争が始まると、その戦争に呼応するように反対勢力を封じ込め、中央アジアのイスラム系反政府勢力は劣勢に立たされた。フェルガナのイスラム原理主義者たちも、指導者層が逮捕されたり殺されたりして徐々に勢力は小さくなっていった。映画の中では、これらの勢力のある一部が劣勢を挽回しようと自爆攻撃を企てる。
この自爆攻撃の狙いは、火種の無いカザフスタンであえて自爆攻撃を起こすことにより注目を引き起こすことと、ウイグル独立問題に関わることで、大義を得て賛同者を増やし、勢力を拡大することにあった。そして彼らが選んだのが、5 月9 日旧ソ連が対独戦争に勝利した日、すなわちヨーロッパにおける第2 次世界大戦の終了を祝う戦勝記念日という設定になっている。なお、撮影が行われていた2008 年5 月11 日、チェチェンではロシアが自爆攻撃と呼ぶレジスタンス攻撃が実際に行われた。
映画『ウイグルからきた少年』は、1980 年代後半に始まったカザフニューウエーブと呼ばれる崩壊前のソ連映画界に突然おこったムーブメントの系譜であることは間違いない。カザフニューウエーブとは、中央アジアの一共和国カザフスタンの若手監督たちによりおこった新しい映画表現のムーブメントだ。ソ連が中央アジアと同じイスラム圏のアフガニスタンに侵攻し、アメリカのように状況は泥沼化し、若者の間には意義の見えない戦争への絶望が蔓延し、経済的にも社会的にも停滞期を迎え人々は疲弊していた。そんな中、旧世代に属さないカザフスタンの才能ある若者たちが自分たちの現状や思いを、検閲をかいくぐりながら切り取った表現とメッセージで作った映画を次々と発表していった。
ヌグマノフ監督の『僕の無事を祈ってくれ』、カラクーロフ監督の『兄弟の間にいる彼女』『ラストホリデー』、アプリモフ監督の『終点』『アクスワット』、ダルジャン・オミルバエフ監督の『カイラート』『キラー』等がそれにあたる。これらの作品は世界中の映画祭で絶賛を受け一時代を築いた。だが、このエネルギー溢れるムーブメントも、ソ連が崩壊し中央アジア各国が独立し、混乱が治まって経済的に安定してくると、皮肉なことにパワーを失っていった。外国からの情報が大量に流入してくると、映画もハリウッド化していき、作られる作品が徐々に“普通”の作品に成り果てていった。カザフニューウエーブ時代のエネルギーの源だった反抗期のような怒りや哀しみが、時代を経てリアルではなくなっていったのかも知れない。
カザフスタンは9.11 以降の石油ブームで急激に経済成長し豊かな国に変貌し、貧富の差が激しいとはいえ、人民の不満は少なくなった。だが、アルマトイから100km 程度先には中国があり、隣のキルギスタンも貧しく、近隣諸国のアフガニスタンは未だに戦争状態だ。
カザフスタンの今日の繁栄も、アメリカによるアフガニスタン、イラクとの戦争によって石油価格が高騰したことが少なからず影響しており、同じイスラム圏の人々の悲劇の代償というアイロニーの結果とも言えよう。カザフニューウエーブ期のシネアストたちも、繁栄という仮面の一皮下にある不安と絶望を表現したいという欲求は高まっていった。しかし、カザフスタンの暗部をストレートに描けば、批判に曝され仕事が干される。そんな時、カザフニューウエーブのシネアストたちが再結集して作られたのがこの作品だった。