コラム








ウイグル族を主人公にした劇映画は珍しい。今年7月に騒乱が起こった中国新疆ウイグル自治区には1000万人ほどのウイグル人が暮らしているというが、中国映画でもウイグル人を主人公に描いた映画はあるのかどうか。そのウイグル人に焦点を当てた映画が『ウイグルからきた少年』である。

舞台は中国新疆ではなくカザフスタンのアルマトイ。主人公もウイグルの少年に加え、カザフの少年、ロシアの少女の3人である。それぞれ事情を抱えた3人のストリートチルドレンは、郊外の建設中止になった建物の片隅を間借りしている。この3人の子供たちに共通しているのは、生への絶望感であり、死に向かう悲劇への歩みである。

絶望した子供たちが主人公とは何とも暗い映画であるが、実際にはあまり暗い印象は受けない。その理由は2つある。1つは、子供たちの素人演技ということもあり、心理表現を避けていること。そこからドラマは淡々と進展する。もう1つは、ビデオ制作ということからくる。廃墟の地下室のような住居も鮮明に描かれ、陰影による映像表現がフラットな印象が強く、心理描写との絡みが希薄になっている。

たとえば、ウイグルの少年アユブがイスラム原理主義者に売られ、自爆攻撃の訓練を受けるシーン。アユブの訓練はアクションの積み重ねで象徴的に描かれ、ほぼ心理描写は介在しない。そのため、ラストの実行シーンでは、手持ちカメラによる画面の揺れが少年の心理を代弁し、街の人々の長閑な風景と対比されてインパクトを生んでいる。

主人公が子供たちということ、またビデオ制作ということから、ほとんどのシーンが長回し撮影が中心になっている。確かに住居シーンでは朽ちた配管の細部のアップなどを挿入しているが、遠景から撮られたシーンが目立つ。ビデオ制作という点を除けば、たとえばラシド・ヌグマノフ監督の『僕の無事を祈ってくれ』(1988)など、カザフ・ニューウェイヴの特徴がこの『ウイグルからきた少年』にも受け継がれている。

美しいシーンがある。マーシャが黄色い水着で海を泳ぐシーンと、階下からカエサルを呼ぶ母親の声が聞こえる無人の室内シーン。回想なのか幻想なのか。一方、アユブに対しては新疆を逃れる回想がモノクロで入る。この違いは何か。カザフスタンのストリートで交錯するカザフ、ロシア、ウイグルの子供たちの絶望感。なかでも個人を超えた世界から強いられるウイグルの少年の絶望と死を見るのはやるせない。