監督ノート
伝説的フェスティバルの記録が日の目を見る
1995年、私は1974年の秋にザイールのキンシャサで催された、モハメド・アリとジョージ・フォアマンの名高い闘い(「ザ・ランブル・イン・ザ・ジャングル」)の歴史ドキュメンタリー『モハメド・アリ かけがえのない日々』の編集者に雇われた。映画が完成に近づくにつれ、私は倉庫に戻された宝のような映像の山が気にかかり出した。ごく表面的にしか調べられなかった記録映像がごっそりあったのだ。
顧みられなかった映像は、伝説的な3日間のミュージック・フェスティバル「ザイール’74」の膨大な記録で、コンサート自体のほかに、フェスティバルをオーガナイズしようとする努力や、スタジアムの準備や、アフリカに旅して人生が変わったアーティストたちの体験といった、すばらしい記録もあった。この記録の存在を知っているということが、私の肩にのしかかった。もし自分がこれらの記録に日の目を見させようとしなければ、私はこれらのイベントを人々に気づかなくさせ、みんなが起こったことを「見聞き」する機会を奪うことに加担するような気がした。
編集者デイヴッド・スミスと共に、何百という本数のフィルムと録音記録を見ていくうちに、素材の大変な力強さに心を打たれた。強烈なユーモアや洞察といった短いショットから、驚くべき一連の映像まで、記録映像は自分が覚えていたのよりもずっと生き生きとして圧倒的だった。すぐに私は、これは長編映画にすべきだと決めた。そして、『モハメド・アリ かけがえのない日々』のプロデューサーのデイヴィッド・ソネンバーグや、監督のレオン・ギャストの協力や力添えを得て、『ソウル・パワー』の制作に乗り出したのだ。
コンサートの全貌が明かになるまで
レオン・ギャストの勤勉で受容的な現場での指示と、ほかの6人ほどのカメラマンに交じって、ポール・ゴールドスミスや、ケヴィン・キーティングや、アルバート・メイズルスや、ロデリック・ヤングの驚異的なカメラワークが、私にこの映画を伝統的なシネマ・ヴェリテ・ドキュメンタリーとして完成させる機会をもたらしてくれた。彼らのカメラワークは信頼に足る根気強さと、経済性と、洞察に満ちていて、審美的にも洗練されている。多くのフィルムが、どのシーンも次のシーンに美しくつながっていて、豊かな記録映像を織り成しながらも意のままに凝縮された情景は、それだけで完璧な短編映画に近く、私の胸を打った。文字どおりの意味で彼らはすぐれた映画作家であり、私のこの映画へのアプローチは、ほとんど彼らの比類なき状況への切り込み方と、起こっていることをダイナミックに伝えることのできる力にかかっている。
編集のプロセスを通して、私はシネマ・ヴェリテの巨匠である、バーバラ・コップルや、アルバート・メイズルスや、D.A.ペンベイカーや、フレデリック・ワイズマンに教えられ、また導かれた。さらに、『ローリング・ストーンズ・イン・ギミー・シェルター』や、『ウッドストック』、『モントレー・ポップ・フェスティバル』、『ワッツタックス』、『ソウル・トゥ・ソウル』といった、その時代のすぐれたコンサート・フィルムにも勇気づけられた。最終的には、私は『ソウル・パワー』がこれらの遺産を受け継ぐものとなっていてほしいと思うが、もちろんそれは観客たちだけに決めることのできることだ。皮肉なことに『ソウル・パワー』を完成させても、膨大な量の素材が使われずに残った。幸い、DVDやネットの登場で、それらの素材を映画に収めなくても、日の目を見させることのできるたくさんの機会を与えられていると私は期待している。一番大事なのは、コンサートの全貌を見られるようにすることだ。
テーマはアフリカとの人々との深い理解と交流
『ソウル・パワー』では演奏シーンが一番傑出していながらも、私を最もそそったものは、参加者たちの体験を探る機会を与えられたことだった。多くの参加者たちにとって、これは自分たちの「ルーツ」に回帰するという心の底を揺さぶる体験だった。時にそれは直接語られているが、もっと重要なのは、彼らのパフォーマンスの緊張感や、モハメド・アリの人種差別に対する批判や、自然と生まれてくる音楽の喜びなどの中に見られることだ(アフリカ人の参加者たちの体験にそれほど注意を払えなかったことを私は残念に思うが、しかし実際に記録がなかったのだ)。
このミュージック・フェスティバルは、音楽的で、文化的で、政治的で、スピリチュアルなコネクションを作り上げたいという深い欲求と、共通の遺産と感受性を再発見したいという思いとの表明だった――それが『ソウル・パワー』を活気づかせているテーマなのだ。残念なことにこの始まりはとても短く終わり、アフリカの人々との深い理解と交流は今は消え細ってしまった。しかし、バラク・オバマの当選と、それがもたらしうる政策と意識の変化の可能性を考えると、私はこの映画がアフリカの興味と交流をふたたび復活させることに役立つのを願わずにはいられない。