この土地のめちゃくちゃに育った植物は美しい。そして、主人公の母親はこの育ちすぎる植物が人になった姿かもしれない、と思えるほどに土地に強力に住んでいる。この勢いに比べると、主人公の少年は貝割れ大根の芽ほどに弱々しい。土地というのは少年とっては残酷な存在だ。少年が詩を発信するインターネットの世界には地面がない。すぐ近く、地続きの所にいたはずの「足のない少女」は死んでしまって、地面のない世界の映像のなかにしか居ない。このままでは貝割れは育たないかもしれない。
いたたまれない気持ちで映画の世界を抜け出して「足のない少女」の発信する写真のサイトを訪れてみると、そこにあったのは映画の中の植物と同じように逞しく、地に足着いた「足のない少女」の姿です。いたたまれない気持ちがモニターの前で宙ぶらりんになりました。
「インターネット」や、「ティーンエイジャー」が重要なのではなく、ていねいにつくられていながら、どこかバランスの悪い、幼いかと思えば、時に老成して見える映像の、母と息子、大人と子供、のあいだの存在、のような、時間の中の関係の「緩急」、表情にムラのある、少し変わった劇映画。
些細なことで大きく揺らいでいた10代。
今となってはなぜか、他人のもののように現実味のない記憶。
それが紛れもなく存在する自分の過去なんだと、確認させてくれた作品でした。
まるで、家族や友人と思い出話をしたみたいに。
センチメンタルになったあと、なぜだか心が凪いでいました。
夜の暗闇が印象的だ。闇がキチンと闇なのである。ブラジルの街のせいなのか、この映画の持つ特性なのか。多分両方なんだろう。
うっかりしてると闇に飲み込まれそうで、でもそれがわたしたちの住む世界の現実でもある。
そんな危うさが美しい映像のなかに見え隠れしながら、イマジネーションを刺激される作品だ。
村、閉鎖感、ちょい厨ニ病な男子、そして重い、おっもォーい時間の流れ。自らの写真やビデオをアップしてネットに紡いでいた少女の抜け殻に、少年はのめり込んで行くのだが...過去/現在/リアル/虚構が容赦無くネット上でフュージョンして、多感な彼に襲いかかってく。こんなネットワークな青春、アリなんだろうね。
わたしは映画といえば、幽幻道士が大好きです。
この作品を見た時「この女性は幽幻道士で言うところのテンテンなのかな?」
「この少年は幽幻道士で言うところのスイカ頭なのかな?」
「はは~ん、この男性は幽幻道士で言うところの親方だな。」
と模索しましたが、・・・違う。まったく違った。
この映画作品「名前のない少年、脚のない少女」は幽幻道士とはまったく違うストーリー、世界観の作品である。幽幻道士しか知らない私は率直に「こんな映画見た事ない!!!」と思った。ほんまに。
みなさん、幽幻道士の事は忘れて、頭をからっぽにしてこの映画を見て下さい。
幽幻道士しか知らないあなたは必ずぶっとばされるでしょう。
わたしは、ぶっとばされた。
あわない焦点、微かな光、どこか落ち着きのないアングルは不安定で繊細でときおり幻想的に映る。これまで抱いていたブラジルのイメージとはまったく異なっていた。
ところがこの作品は少年の心情を写し出していたかのようにアンニュイで、もの寂しげで、どこまでが現実で幻想なのか。やはりいつの時代も、どこに行っても少年の心は倦怠感や喪失感、鬱蒼としたやるせない思いで一杯だ。必見なのは、脚のない少女「ジングル・ジャングル」のモデルがウェブサイト上のフリッカーで本当に実在することだ。フリッカーにある彼女の写真もとても興味深かかった。