プリピャチ・30キロ・ゾーン、この言葉は南相馬に住む私には胸がざわつく響きをもたらす。白黒の画面が動き出し、建物の残骸が現れる。チェルノブイリ原発事故から12年を経たプリピャチのこの風景を目にしたとき、直感的に「南相馬は、こうはさせない!」と思った。原発事故から一年、私たちは30キロゾーンでしっかりと生きている。だれもの胸の奥には放射能への不安が重低音のように流れ、日常会話の多くがプリピャチの住民の言葉と重なるが、みんなこの町で新しい未来を創ろうと動き出している。今、南相馬で暮らす市民は、顔つき、目の光が少しずつ変わってきている。新しい未来を創るために放射能と真正面から向き合いそれを乗り越えるという志を持った若者を中心とした動きが新しいうねりを生み出している。世界中の叡智が集まる兆しが私たちに希望をもたらしている。南相馬は死なない!みなさん、南相馬に来てください!一緒に人類の新しい未来を創りましょう!
(たかはし・みかこ)
つながろう南相馬/(株)北洋舎クリーニング代表取締役。福島県南相馬市でクリーニング店を営み、震災直後HPから「南相馬からの便り」を発表。
私がプリピャチの街に実際に入ったのが1997年なので、ほぼこの映画撮影と時期だ。当時出会った老人も出演していたので再体験するように記憶がよみがえる。映画のように、会う老人全てが気さくでとびきり優しく、遠い国からの訪問者を喜んで歓迎してくれた。わが身の不幸をぶちまける事無く黙々と日常を過ごす姿にその時はまだ笑顔で返せていた。しかしゾーン内に住む3歳の坊やに出会ったときはさすがに私の心の中は行き場の無い怒りに震えた。「人類はなんて愚かなものに手を出してしまったのか…」。その怒りのエネルギーが今でも作品を作り続ける原動力となっている。この映画は見る人の多くにそういう体験を与えてくれるのだと思う。
(やのべ・けんじ)
現代美術作家、大阪府出身。代表作『アトムスーツ・プロジェクト』では、放射性物質による汚染から人体を防護する機能を備えた全身スーツとプリピャチの観覧車を題材に作品を制作。
昨日、今日と福島県飯舘村のKくんが東京の私の家に泊まりに来ています。「一緒に『プリピャチ』見る?」と誘ったけど、めんどくさいのか興味ないのか乗り気でない感じ。村が放射性物質で汚染されたことをとても憂えて、子供たちが被曝してしまったのではないかと本当に心配して動いているKくん。だけどやっぱり『プリピャチ』はまだ見たくないのかもしれない。グーグルアースでチェルノブイリを探し始めたKくん。「わー拡大したら石棺が見えるね」「プリピャチってここだ、ちかーい!」などなど騒ぎながら見たあとに、飯舘村を見出して。「僕んちここですよ、ここが畑。トマトとか白菜とかいっぱいあって。」「Iさんちはどこ?」「えーと、ここ!」「Hさんの牧場は?」「ここ!あ、猪がいる!」「ここが線量高くってね」「ここが汚染廃棄物の仮置き場の候補地になっちゃった」空から飯舘村を案内してもらいながら、こうして、故郷を眺めるプリピャチの方々もいらっしゃるんだろうか、とふと思いました。
(おしどり・まこ)
夫婦音曲漫才おしどりとして2003年コンビ結成。ボケと針金細工担当のケン、ツッコミとアコーディオン演奏によるマコとして活動中。吉本興業所属。
3.11に関する幾つかのドキュメンタリーを観ながら一喜一憂していたある日『プリピャチ』を観た。繰り返し観た。何度観ても新鮮なのは何故だろうと考えながら観た。1999年に語られた「立ち入り禁止区域」で暮らす人々の言葉は10年以上経った今も褪せる事なく私たちの心に突き刺さる。声を荒げる事も無く疑問や矛盾を“普通”の言葉で率直に語る“普通”の人々の言葉は、原発問題に揺れる今の私たちに重くのしかかる。「ゾーン?30キロ圏外なら安全か?有刺鉄線が放射能を防ぐのか?」と語る老夫婦。「政府の対策は間違っている」とカメラに向かって語る発電所の職員や医師。誇らしげに原子炉について説明した作業員もいつしか緊張が解け生活もままならず家族を養えないと訴える。医療器具もない診療所で老婆が呟いた。「生きるには働かないと。でもどう生きれば?」かつての“普通”は戻らない。新たな“普通”になりつつある今を考えさせてくれる100分。
(やん・よんひ)
1964年生まれ、在日コリアン2世のジャーナリスト、映画監督。2005年、自身の家族を描いたドキュメンタリー映画『ディア・ピョンヤン』で世界の映画祭で受賞。最新作『かぞくのくに』が2012年8月公開。
チェルノブイリ原発事故の処理関連の仕事でこの立ち入り制限地区に入った人は、そこを平気で「ゾーン」と言う。けれど、住み慣れたふるさとが外部からある日突然「ゾーン」などと命名されて、穏やかでいられる人はいない。原発建設とともにニュータウンに移り住み、今は外から発電所に通うかつての住民は、ずたずたの心をその饒舌にあらわにする。原発以前からの旧住民、それは仲のいい老夫婦なのだが、この二人は過酷な現実を威厳とユーモアではね返す。きのこや魚をとって食べるのは、貧しいからでも無知だからでもない。それが、祖先の知恵と努力が染みついたふるさとでの、誇り高い生き方だからだ。モノクロの、人物を真正面から捉えたロングショットという話法は、ラストの老人の述懐に至って、叙事詩の作法だったと思い知る。寡黙きわまる映像にもかかわらず、それを追う者の内部にはおびただしい思念が渦を巻き、気がつくと深く心を耕されている。
(いけだ・かよこ)
ドイツ文学翻訳家・口承文芸研究家。主な著作に『哲学のしずく』(河出書房新社)、『世界がもし100人の村だったら』(マガジンハウス)。
『プリピャチ』を観ると、タイムマシーンで「フクシマ」の未来を見て来たかのような気がする。
「ゾーン」の中で生活する老人がいることは、人間の生命力の強さを感じる、「帰りたい」と思う人に「希望」と「勇気」を与える。収束作業にかり出された若者たちは、放射能に関しての知識もなく無用な被曝をさせられ死んでいったと、悔やむ女性技術者とは対照的に、「今後、事故は起こさない」と断言している責任者。広大な大地を汚染し、多くの人々の人生を狂わせてしまった原発を、チェルノブイリでさえ止めずに稼動し続ける現実に、原発の魔力にとりつかれた人間の「欲望」を見ることが出来る。
未だに馬車を走らせ、バケツで水を汲むプリピャチは、日本の昭和30年代を見ているような懐かしい風景。モノクロの映像がなお郷愁を誘う。その中に、映像には決して映らない「放射能」が存在する。それと、どう向き合うのか、「フクシマ」に課せられた大きな課題でもある。
(さとう・さちこ)
子どもたちを放射能から守る福島ネットワーク世話人/NPO法人青いそら設立理事長。福島県伊達郡川俣町飯坂在住。
映画撮影のために監督たちは3ヵ月間《ゾーン》に滞在した。低線量の場所を選び、食物も外部から取り寄せたという。にもかかわらずオーストリアの放射線作業従事者の年間許容量を超える被曝をした。恐るべき危険な撮影だとこちらが息をのむ間もなく、監督は「その土地には線量計も持たず、外部から食料を取り寄せることもできず生活している人たちがいる」と指摘した。映画『プリピャチ』を見るという体験は、日常や社会通念が完全に食い違ってしまった2つの世界を往来することに等しい。郷土愛を語る言葉はまるで遺言のように響く。一方で「この土地には150年経っても人は住めない」という専門家の声は、10万年後というSF的な次元の話ではなく、今まさに人間の生活圏が壊れつつあるという現実を直視させる。『プリピャチ』のモノクロ映像は、《ゾーン》という領域がまさに不可逆的に生まれてしまった不条理を象徴しているのかもしれない。
(しぶたに・てつや)
映画研究、ドイツ映画、比較文化。主な翻訳書にライナー・ヴェルナー ファスビンダー『ゴミ、都市そして死』ほか。
プリピャチはチェルノブイリ原発そばの村の名前である。原発から4キロという近さだ。原子炉から吐き出された冷却水を運ぶ川の名前でもある。チェルノブイリ原発事故後、30キロ圏内は立ち入り禁止区域となり、プリピャチ住民5万人が避難した。避難後に戻ってくるなどして、事故から12年後の映画撮影時(1998年)には700人が立ち入り禁止区域で生活していた。元原発作業員の老夫婦が冒頭と最後の場面に登場する。二人はプリピャチ川に釣りに出かける。「昔は川の水を汲んで茶を沸かした。川は浅かったけど水は澄んでいた。この河畔で生まれたんだから、ここで死にたい」。淡々と話す老人の口調が観る者の胸をえぐる。「ここで死にたい」と願い、線量の高いことを知りながら福島に住み続ける老人は数えきれない。『プリピャチ』でチェルノブイリ原発事故から12年後に起こったことは、すでに福島で起きている悲劇である。
(たなか・りゅうさく)
世界の紛争地域を名もなき人々の視点から取材・執筆。ウェブサイト『田中龍作ジャーナル』で発信を続けている。
老人が馬車でゆっくりと村を一周する。汚染されている川で今も漁をする老人が、ゆっくりと船を漕ぐ。今も発電所の研究所で働く女性は、廃墟となったわが家を訪ねてみる。カメラは、ゆっくりとその場所を移動する人々を延々と追い続ける。そこは「ゾーン」と呼ばれ、そこから何も持ち出しては行けないし、何も持ち込んでは行けない場所。しかし、その計り知れない危険がカメラに写る訳ではない。特別なことは何も起きない時間と空間。老人が言うようにそこは実は安全で「不安は無い」のかもしれないし、警備員が言うように「100年後も人は住めない場所」なのかもしれない。しかし、当然ながら放射能は写らないし匂いも色も無い。危険とは「情報」でしかないかもしれないのに、ここにはその情報さえ無い。『プリピャチ』は決して声高に主張せず、その孤島のような場所で日常を生きることの不確かな不安、決して視覚化されることの無い恐怖の質というものを、明晰なカメラによるシンプルな映像言語で浮かび上がらせる。「たいして恐ろしくない」ということがどれほどの悲劇であるのかを私たちは思い知る。
(すわ・のぶひろ)
1960年生まれ。映画監督、東京造形大学学長。『ユキとニナ』(2009年)をはじめ、『M/OTHER』(1999年)『不完全なふたり』(2005年)など、カンヌ国際映画祭やロカルノ国際映画祭でも高い評価を獲得。
『プリピャチ』を初めて見たのは2011年6月。事故後も現地で生きる人々の日常や思いが語られるその内容、そしてゲイハルター監督の、つつましくその場や人々に寄り添う姿勢に共感し、ぜひとも多くの人々に見てほしいと公開に向けて動いた。チェルノブイリ事故12年後を描いたこの映画を今見てもらう意味を強く感じたこと、感銘を受けた『いのちの食べかた』の監督であること、また個人的にはチェルノブイリ事故の時、ドイツに滞在していたことが原点となっている。『プリピャチ』をはじめとする多彩なドキュメンタリー作品においてゲイハルター監督は、世の中から忘れられつつある場に静かに分け入り、各人の言葉や自然の息吹を丹念にすくいあげる。彼が一貫して問いかけているのは人間と技術、そして自然との関係である。取り上げられるのは歴史の舞台から外れた時間や空間であり、連綿と息づく人々や自然である。彼の作品は寡黙で、それゆえに問いを雄弁に投げかける。彼の作品は切なく、そして真摯に美しい。
(しかた・ゆきこ)
メディアアート・キュレーター。東京造形大学特任教授、多摩美術大学客員教授、情報科学芸術大学院大学(IAMAS)非常勤講師。数々の展覧会やプロジェクトに関わる。
『プリピャチ』で描かれるのは、淡々と続く「チェルノブイリ」後の日常だ。畑を耕し、川魚を釣りあげ、大地と共に暮らす人々。風にそよぐ木々の上からは、歌うような鳥の鳴き声も聞こえてくる一見のどかな、どこにでもある田舎の風景。だが観客が「見えない放射線」を感じ取ることができるようになると、それらはまったく別物となる。汚染された灰色の世界、その中で暮らすことを余儀なくされた人々。彼らを襲うのは、正確な被曝量が分からない不安、他人には理解されない孤独。それだけでなく、経済的にも追い込まれていくのだ。映画「プリピャチ」のモノクロ映像は、それら一連の不安と恐怖を、否応なく見る者に想像させてしまう。「黙示録」と呼んでも良いかもしれない。この映画が描いているのは、間違いなく数年後のフクシマなのだから。
写真:桃井和馬
(ももい・かずま)
写真家・ノンフィクション作家。これまで世界140ヵ国を取材し、「紛争」「地球環境」などを基軸に、独自の切り口で「文明論」を展開。
私は南相馬市に六年ほど暮らした。昨年の暮れに、二十キロ圏内に防護服を着て入った。よく遊びに出かけた小高区や浪江区に行って現場を見てきたが、涙が止まらなくなってしまった。この間まで親しかった土地の表情はがらりと冷たいものに変わっていた。何にもつながっていない世界が広がっていて、たとえようのない静閑さがそこにあった。春頃まで暮らしが営まれていたはずなのに、無人地帯は残酷なまでに私に何も語らない。
圏内は、爆発後すぐに避難指示があって、立入禁止となった。津波に巻き込まれて、その後に命からがら浜に打ち上げられた人々…。救助の手をもらえず、そのまま寒さにうち震えながら、命を落とした方がたくさんいらっしゃった。その海辺に行き、手を合わせた。
絶望だ。人類の静けさを現代に、後世に伝えなくてはいけない。『プリピャチ』はこの静寂と足し引きなく向き合っている大切な映画である。本編の人々の語る言葉に、耳に訪れた浜辺の鳥たちの声を想った。合間の沈黙に、生きることのかけがえのなさがある。
(わごう・りょういち)
詩人。被災後、在住の福島よりツイッターで詩篇「詩の礫」を発表。遠藤ミチロウ、大友良英とともにプロジェクトFUKUSHIMA!を立ち上げる。
福島第一原発のことを聞いたとき、不思議だとは思いませんでした。まさにこういう状況が起こることを、チェルノブイリの事故後25年の間にずっと考えてきたからです。福島の事故でも、メディアが紹介するときは、人々の興味を惹くことしか頭にありません。チェルノブイリも事故が過ぎ去ってしまうと、メディアはまったくとりあげなくなってしまいました。だからこそ私は『プリピャチ』を作ったのです。
はっきりとした解決法はないのですが、このような映画が作られて、その後で人々の意識や民主的な行動は少しは変わったかもしれません。ただ、メディアがやっていることは今も昔も変わっていないと思います。
しかし撮影中、いちばん感動的だったのは、ゾーンの中に戻った人たちが、危険があるということを知っていながらも、なんとか生活を立て直そうとしていること。未来が見通せないこうした状況の中でも人が生きていけるということでした。
(Nikolaus Geyrhalter)
『プリピャチ』監督。1972年オーストリア・ウィーン生まれ。食べ物の大量生産の現場を描く『いのちの食べかた』(2005年)が話題を呼ぶ。2011年制作の『眠れぬ夜の仕事図鑑』(原題:Abendland)が2012年初夏公開。