33年間の拷問と投獄、チベット僧パルデン・ギャツォの不屈の精神を描いたドキュメンタリー映画『雪の下の炎』

雪の下の炎

シノプシス

シノプシス 33年間の拷問と投獄、チベット僧パルデン・ギャツォの不屈の精神を描いたドキュメンタリー

「チベットの問題を世界の人々に知ってほしい」その想いで、パルデン・ギャツォは自身の壮絶な半生を語りだす。 チベット西部のパナム、この小さな村に生まれたパルデン・ギャツォを、初めて目にした祖母は、その美しく清らかな存在に、高僧の生まれ変わりだと思ったという。かつてのチベットは平和で人々は幸せに暮らしており、叔母に実子として育てられたパルデンは、幼い頃に僧院に入り、僧侶になった。

1950年、チベット人を解放するという名目で中国軍がチベットへ侵略した。しかし、実際はチベットを支配下に置くための侵略にすぎず、1959年、抗議の声が高まり民族蜂起が起きる。その年、パルデンは平和的な抗議活動に参加した“罪”で逮捕された。28歳の時だった。
裁判もなく懲役7年の刑期を言い渡され、答えようのない尋問と非道な拷問に耐える日々。それは、チベット人に罪の意識を植え付け、独立への信念を打ち砕く“再教育”だった。パルデンは決して屈することなく、中国人尋問官に「チベットはチベット人のものだ」と反論し、その度に激しい暴行や飢えに晒された。このままでは死んでしまうと思ったパルデンは、仲間と共に脱獄を決行する。しかし、インドへの道中で捕まり、脱獄後2年間に渡り、手錠と足枷をつけさせられる。悲しみに暮れる中、パルデンは「ダライ・ラマか、さもなくば、誰か外国人が現れて助けてくれる日」を夢みていた。

1992年にパルデンは釈放された。刑務所で23年、労働改造収容所と拘置所で10年を過ごし、61歳になっていた。その後20日間かけてヒマラヤを越えてインドへ亡命し、ダライ・ラマ法王がいるダラムサラに辿り着いた。パルデンにも怒りや憎しみの感情はある、しかし「人々の破滅を願うことは、己の破滅を招く」という慈悲の心を忘れることはない。「私がこうして生き延びたのは、信仰があったおかげ」だと言う。

2006年トリノ冬季オリンピック。パルデンはチベット人青年会議団と共に2008年のオリンピック開催地が中国に決まったことに対し、ハンガー・ストライキを行った。チベット亡命政府からは慎むよう言われたが、「チベットからの悪い知らせを聞くたびに、自分を抑えられなくなる」と言う。絶食は数日に及び、次第に衰弱していく中、「死んだって構わない」と言ったパルデンの言葉に、強い決意があった。

獄中で仲間から言われた「もし君がこの苦難を生き延びたら、チベットのために闘ってほしい」という言葉は決して忘れない。「この年齢になってもまだ闘い続けるのは、非業の死を遂げた彼らのため」パルデンは、現在も世界各地を訪れ、チベットの平和を取り戻すために活動している。

拷問の様子、ダライ・ラマ、オリンピックのデモの写真など