イントロダクション

アメリカの近代主義から生まれた新しいデザインの潮流"ミッドセンチュリー・モダン"の旗手、イームズ夫妻の素顔に迫ったドキュメンタリー。

世界中に親しまれているイームズ・チェア、その誕生秘話と、夫婦の愛のものがたり。

画家を目指すレイ・カイザーと、当時既婚者だった建築家チャールズ・イームズ。二人は出会い、恋に落ち、やがてお互いの才能を認め"イームズ・オフィス"を立ち上げる。第二次世界大戦、アメリカの急速な近代化、冷戦、と時代に翻弄されながらも、それを逆手に取り、あの有名なイームズ・チェアをはじめとした家具、おもちゃ、建築、映画と多岐にわたる作品を生み出していく。シンプルで洗練されたフォルムの中にも、遊び心と"おもてなし"の思いが軸にある二人の作品はどこか温かみがあり、今なお世界で愛され続けている。

本作は、生前明かされなかったイームズ夫妻の側面にフォーカスした初めてのドキュメンタリーだ。二人がやりとりした手紙やたくさんの写真、生み出された美しい作品たち、そして当時"イームズ・オフィス"にいたスタッフや家族へのインタビューを通じて、20世紀をハイスピードで駆け抜けた伝説のデザイナー・イームズ夫妻の軌跡を鮮やかに描く。今も世界中に影響を与え続けている二人のこだわりが詰まった84分。

What is the Eames chair they designed? ふたりがデザインしたイームズ・チェアって?

1950年、当時はなかった大量生産、軽量、低価格で販売されたシェルチェアが有名。当時のアメリカで人気を博し、その後のデザインにも影響を与え、現在も親しまれている。

20世紀のアメリカをデザインした伝説のデザイナー、チャールズとレイ

Charles Eames

最高にイカした男、チャールズ・イームズ(既婚者・建築学校を退学処分)

「理解することを他人任せにしない、それがイームズ式デザインの秘訣。1つのアイデアを出して捨て、50のアイデアを出して捨てる。いくつか試作品も作り、ダメなら捨てる」

「デザインは、お客さまに対して、良いもてなし役にならなくてはいけない。さまざまな人が座る椅子を作るために、大勢の体形と姿勢の平均値を把握することから僕たちは始めた」

「僕たちのエネルギーがどこから来るか。いわばボードビル芸人のようなもので、30枚の皿を同時に回しながら、落ちそうな皿をすばやく直しつつ頑張り続けているのに近いんだ」

セントルイス生れ。14歳のときに父親が亡くなり、学校に通いながら働いて家計を支える。高校時代に勤めた製鋼所で図面を描く仕事を任され、建築に興味を持つようになる。高校で卒業生総代を務めるほど優秀な生徒で、奨学金を得て地元のワシントン大学建築科に進学する。だが、入学2年目に大学側にフランク・ロイド・ライトをカリキュラムに加えるよう要求したため、大学から放校される。22歳で大学の学友だったキャサリン・デューイ・ワーマンと結婚。大恐慌のさなか、知人と建築事務所を開設し、以後およそ10年建築家として働く。その間に知り合ったフィンランド人建築家エリエル・サーリネンの誘いで、31歳のときにミシガン州のクランブルック美術アカデミーの特別研究員となる。翌年、アカデミーに入学してきたレイ・カイザーと出会う。キャサリンとの結婚生活はすでにうまくいっておらず、離婚後、レイと結婚し、ロサンゼルスに移住。2年後の1943年、ヴェニス地区ワシントン通り901番地にイームズ・オフィスを開き、40年間にわたってレイと共に20世紀のデザインに大きな影響を与える作品を残した。1978年、心臓発作により死去。享年71歳。

Ray Eames

身近なものに魔法をかける、卓越したセンスの持ち主、レイ・イームズ(画家志望)

「私は画家になるための勉強をしてきたけれど、たとえ家具や映画の仕事をしている間も、絵をやめていた気がしない」

「絵もデザインも、写真も同じ。フォーマットが違うだけで、やることは同じなの」

「"最少の材料で最大のお客様に最高の商品を"というのが根本にあったから、私たちは大量生産に興味を持った」

カルフォルニア州サクラメント生まれ。ゲームやおもちゃを楽しんだり、自然の中で遊ぶことを大事にする両親のもとで育つ。高校で美術部に入ると絵画に熱中し、ノートを埋めつくすほどスケッチを描き始める。短大卒業後、ニューヨークでドイツ人抽象画家ハンス・ホフマンの創設した美学校に入り、6年間ホフマンの門下で絵画を学ぶ。24歳のとき、アメリカ抽象芸術家協会というグループの創設メンバーになる。その後、絵画以外の美術表現への興味から、28歳のときに友人の勧めでクランブルック美術アカデミーに願書を出し、そこで生涯のパートナー、チャールズ・イームズと出会うことになる。チャールズと結婚し、ロサンゼルスに移住してからの2年間、『アーツ&アーキテクチュア』誌の表紙を何度か描き、規則的に絵を描いていたが、その後、ほとんどの時間をチャールズとの共同作業に費やした。チャールズの死後、イームズ・オフィスの手がけた膨大な作品や資料を整理しながら、二人の仕事について文章を書き、講演をおこなった。そしてチャールズのちょうど10年目の命日に死去。享年76歳。