風の馬


映画化の経緯~チベット弾圧の真実

1993年の秋、ニューヨーク・タイムズ紙を読んでいた監督のポール・ワーグナーの目にとある記事が留まった。若いアメリカ人女性がチベットの首都ラサでデモの写真を撮影したことを理由に中国警察に逮捕されたという。ワーグナー監督がその話に興味を引かれた訳は、彼にはチベットと国境を接するネパールのカトマンズで、チベット文化とチベット語を学んでいるジュリア・エリオットという姪がおり、彼女からチベットとネパールでのチベット弾圧に対する抵抗運動の話を聞いていたからだ。だが、その記事を読み進むと、監督はその若い女性こそジュリア本人であることに気がついた。彼女はパスポートとカメラ、デモ行進の様子を収めたテープを取り上げられた上で当局から解放された。この事件が『風の馬』の製作のきっかけとなった。

中国当局による監視の目をかいくぐった無許可の撮影

このプロジェクトの性質上、チベットでは秘密裏に撮影しなければならないことは明らかだった。そこで、ワーグナーは共同監督のテュプテンと実際の撮影開始よりも数ヶ月前に小さなビデオカメラを持ってラサに入り、現地での撮影テストを行った。その偵察の折のある晩、ワーグナーは町の薄暗い通りで一人で撮影していた。ファインダーをのぞき込んでいた彼は、時折素早く通り過ぎるバイクのライト以外に、フラッシュが自分を照らし出したことにかすかに気がついた。顔を上げたが、えんじ色の僧衣を来たチベット僧が立ち去る以外、なにも変わったことはなかった。

しかし翌日、テュプテンが中国秘密警察に潜伏しているたれ込み屋から、公安局の掲示板におもしろそうなものが貼り出されていたという情報を得た――ビデオカメラを持っているワーグナーの写真だった。実は、あの僧侶は中国当局の協力者で、ワーグナーの行動を盗撮していたのだ。この一件で「ドルジェとドルカの近隣の僧侶がスパイであった」というエピソードを脚本につけ加えることになった。

「歌手のドキュメンタリー」を偽って敢行されたネパールでの撮影

二人の尼僧が中国の宗教弾圧に抗議して大声で「フリー・チベット!」と叫ぶシーンが最も危険な撮影だった。バルコル(ラサのマーケット)を模した大きなセットで、たくさんの小道具や百人以上のチベット人のエキストラと共に、ネパールのカトマンズで撮影された。これだけ多くの人々の前での撮影では、すぐにカトマンズ中に映画の内容が知れ渡ってしまう事は明白だった。だが、撮影されたテープはネパールのチベット人活動家グループの一員によってどことも知れぬ場所へ運ばれ、撮影が終了した晩、全ての素材はアソシエイト・プロデューサーの手に渡り、彼はそれを持ってアメリカ行きの飛行機に飛び乗った。

翌朝、ネパール警察がクルーの宿泊していたホテルにやってきた。情報省の役人は検閲のためにテープを引き渡せと命じたが、彼らが言えたことは、「それはもうここにはない」ということだけだった。