コメント

聖者たちの食卓

(敬称略、順不同)

喧騒と混沌にあるインドが描かれている。 しかしその向こう側に見えてくる、すべてが清浄で根源的である、完璧な食風景を鮮やかに感じました。 みんなで作って食べるって美しい。

─佐々木俊尚
(作家・ジャーナリスト)

もの凄いことがさらっと描かれているのだが、被写体たちにとってはこれが日常なのだ。 この特別感のなさがおかしくて仕方ない。だから食器を洗いながら「別に普通ですよ、こんなの」という表情さえも面白い。しかし制作者は画面を覆う人の群れをまるでスペクタクル映画のように、飛び交う大量の食器をアクションそのものと捉えている。そして僕らは10万人分の食を通して「生きる」ことそのものを考えさせられる。言葉はなくても、映画でしか伝えられない体験だった。

─松江哲明
(ドキュメンタリー監督)

インドのにんにくは日本のにんにくと比べて小さく、薄い皮を剥くのがとても大変だ。だが、にんにくなしのインド料理なんて考えられない。いったい誰がどんな気持ちで毎日にんにくの皮を剥いているのだろう? といつも疑問に思っていた。この映画の冒頭にその答えがあった。

頭にターバンを巻いた敬虔そうなシク教徒のお爺さんが黙々と小さなにんにくの皮を剥いていたのだ。その姿がなんとも神々しい!

10万人分の食事に必要な数万個のにんにく皮剥き、数万個の玉ねぎ刻み、数トンの小麦粉生地延ばし、数トンの乾燥豆煮込み、そして、食堂の床清掃や10万枚の皿洗いまで、シク教総本山ゴールデン・テンプルで500年にわたって毎日絶え間なく続いてきた調理作業、それ自体がすばらしい宗教的修行であり、儀式であろう!

─サラーム海上
(音楽評論家/DJ/中東料理研究家)

ゴールデンテンプルには何度か足を運んだが毎回神々しさを強烈に感じていた。その舞台裏では、10万人無料食堂を支えるボランティア達の敬虔な精神による仕事があったのですね。シーク教徒達がカレーを作って食べているだけのことが、何か特別の超越した出来事が展開しているように感じ、映像美も加わってシーンにより色々と考えさせられる興味深い作品でした。

─シャンカール・ノグチ
(東京スパイス番長・
東京カリ~番長)

響き渡る人の声、鉄板の上で踊るチャパティ、投げ込まれぶつかり合う皿。 参りました、ガイドブックでは伝え切れません、このサウンドと臨場感。 最新版『地球の歩き方 インド編』の表紙を飾っているアムリトサルの黄金寺院。 まさか中に入るとこんな舞台が繰り広げられているとは。 旅は行かないとわからないことだらけ。そうだ、豆カレー食べにインドに行こう!

─宮田崇
(『地球の歩き方 編集室』
インド編担当)

こんな原始的ながら整然としたシステムで日々10万人をさばいているというのは、驚異の一言だ。神への信仰、宗教への帰依がこのような現象を存続させているのだろうか。今の日本でこんなことは、ほぼ実現しえないだろうことが残念でならない。それにしても、、、本当に美味しそうな食事である。

─山本謙治
(食と農のジャーナリスト)

こんなことが実現可能だなんて!
10万人の食卓を通して、人の中に眠る“神さま”を見る映画。

─服部みれい
(マーマーマガジン編集長・
文筆家)

同じ釜の飯。
恋人や夫婦が、よく似てくるなんて話をしたことがあるけれど、
きっとそれは、同じ食事を繰り返すからではないだろうか。
食事が細胞をつくるのだから、同じ思考や行動が育まれているとも言えるだろう。
日々の食事という欠かせない行為が、多くの人々をひとつにまとめ、
見えないけれども確かにある方向性が、示唆されている。
食というものが思考のデザインに大きく関わっていると深く感じた。

─谷尻誠
(建築家)

人の一生けんめいとは、なんて美しいのだろう。野菜を育て、収穫し、運ぶ。それを受け取り、料理のために下ごしらえする。火をおこし、水を使い、料理をする。招くための準備をする。手際よく配膳する。使った食器を洗う。片付ける。汚れを洗い流す。掃除をする。磨きあげる。これらすべての一生けんめいに人々の深い祈りがこめられている。「聖なるキッチン」は一生けんめいという名の美しく尊い物語である。

─松浦弥太郎
(暮しの手帖編集長)