物語
「マジックミラー計画を開始せよ」
1941年、日本軍の占領を免れた上海の英仏租界は、当時「孤島」と称されていた。魔都と呼ばれるこの上海では、日中欧の諜報部員が暗躍し、機密情報の行き交う緊迫したスパイ合戦が繰り広げられていた。
日本が真珠湾攻撃をする7日前の12月1日、魔都上海に、人気女優のユー・ジン(コン・リー)が現れる。新作の舞台「サタデー・フィクション」で主役を演じるためだ。一方、この大女優ユー・ジンには、幼い頃、フランスの諜報部員ヒューバート(パスカル・グレゴリー)に孤児院から救われ、諜報部員として訓練を受けた過去があり、銃器の扱いに長けた「女スパイ」という裏の顔があった。
そして2日後の12月3日、日本から海軍少佐の古谷三郎(オダギリジョー)が海軍特務機関に属する梶原(中島歩)と共に、暗号更新のため上海にやってくる。ヒューバートはユー・ジンに告げる。「古谷の日本で亡くなった妻は君にそっくりだ」と。それは、古谷から太平洋戦争開戦の奇襲情報を得るためにフランス諜報部員が仕掛けた“マジックミラー計画”の始まりだった……。
コメント/寄稿
コメント
横幕智裕
(脚本家/漫画原作者)
太平洋戦争開戦直前、激動の時代の愛と謀略。モノクロで描かれる混沌とした魔都上海の世界観に強くつかまれ、引き込まれた。ひたすら夜を突き進んでいる感覚だ。銃を撃つコン・リーのなんと美しいことか。いつの時代も人は国家に翻弄され、呑み込まれていく。今はどうなのだろう。そう痛感した。
曽我部恵一
(ミュージシャン)
ロウ・イエの映画の中では、いつも雨が降っている気がするのだ。
あるいはそれは、年中心に雨を降らすぼくの思い込みだろうか。
しかし、この映画も、やっぱりほら。
365日雨が降り続くこの星で、ぼくらは恋をし、愛を知る。
モノクロームのフィルムが、体温を持ってしまっている。
鹿子
(「満州アヘンスクワッド」漫画家)
魔都上海。
この時代は煌びやかな街、人々の生活が機能しているその一方、すぐ傍で各国の謀略と世界情勢が大きくうねっている。租界における多様な人種も相待って集約されたまさにカオスな舞台。
ちょうど満州アヘンスクワッドも上海編佳境であるが、実際こんなヒリついた空気だったのだろうと思う。
白黒の画面も当時を感じるのにいい雰囲気だった。
大衆演劇のスター女優ユー・ジンは、周りの様々な思惑に利用されながらも最後まで自分自身を貫き美しかった。
見応えのある作品でした。
門馬司
(「満州アヘンスクワッド」原作者)
1941年の上海、混沌としたエネルギーに包まれる空気感をこの映画では存分に味わえます。まるで自分がこの地にいるようなリアリティ!風景の一つ一つが没入感に溢れていて、何を信じ、誰を愛するかという選択の重要さを教えてくれる。そして激動のクライマックス。血と涙で塗れる舞台の観客ではなく、キャストとしてそこにいたような感覚でした。素晴らしい作品に感謝を。
上田早夕里
(小説家)
伝統的なスパイ映画の端正さと、登場人物の豊かな叙情性との融合に、深く心を揺さぶられた。日中欧の諜報機関が暗躍し、抗日派の重慶政府や対日協力派の南京政府に属する各々の下部組織もまた、ここで対立し、暴力をふるっていた時代。この複雑極まりない状況下で、諜報活動を行う中国人女優を演じたコン・リーから目が離せない。富裕層が経済を支配し、貧しい庶民がデモを起こしても生活水準が全く改善されなかった当時の上海では、謀略に関わる人間の命は紙屑同然に使い捨てられ、愛すら人を騙すために利用される。そんな世界で、主人公は戦争の時代の非人間性に自ら背を向けた。それは、真の意味で精神の自由を求めた行為だったのだと信じたい。
寄稿
森直人
続き
(映画評論家)
本作が採用した入れ子構造は、史実という枠組みの中に差し込む形で、いかに蠱惑的な「フィクション」を創造するかという試みの表象そのものと言えるだろう。もちろん、ロウ・イエが描き出す「個と社会」のメカニズムは他の現代劇と同様だ。『天安門、恋人たち』(06)の北京から始まるクロニクルや、『スプリング・フィーバー』(09)や『ブラインド・マッサージ』(14)の南京、『二重生活』(12)の武漢、『シャドウプレイ』(18)の広州……シンボリックな都市に住む個人と、ひりひりした政治や制度との軋轢。それを長い歴史的射程で描く硬質な姿勢は一貫しているのである。
スタンバーグとヒッチコックの記憶も蠱惑的な史実と「フィクション」の入れ子構造
劉 文兵
続き
(大阪大学人文学研究科 准教授)
国際映画祭のレッドカーペットでの華やかな立ち居振る舞いや、意思の強い鋭い眼光を特徴づける近年の出演作と一線を画し、『サタデー・フィクション』のコン・リーは、ナチュラルで深みのある演技を見せている。
そして、ヒロイン像の重層性はそのまま上海のイメージの構築にも寄与し、当時の上海にまつわる国内外の複雑な歴史の位相を鮮やかに浮かび上がらせている。
ロウ・イエと『サタデー・フィクション』
小谷 賢
続き
(日本大学危機管理学部教授)
本映画の舞台は、1941年12月の上海だ。この時代の上海は既に日本軍の占領下にあったが、フランス租界と各国の共同租界が治外法権を維持したままの「孤島」として存在しており、物語はこれら租界内で進展していく。当時の上海は日中のみならず欧米各国のスパイが暗躍する都市でもあり、本作のテーマの一つがまさにこのスパイ戦だ。……本作は複雑な様相を呈しているが、スパイ映画としてはかなり上質で、それぞれの関係を知っておくとより楽しめるのではないだろうか。
上質なスパイ映画
樋口裕子
続き
(翻訳家)
ロウ・イエはなぜ、横光利一の『上海』を劇中劇にはめ込んだのだろうか。
『上海』が単行本になった時に横光はこう書いている。「この作の風景の中に出て来る事件は、近代の東洋史のうちでヨーロッパと東洋の最初の新しい戦いである五三十事件であるが、外国関係を中心としたこののっぴきならぬ大渦を深く描くということは、描くこと自体の困難の他に、発表するそのことが困難である。(中略)私はこの作を書こうとした動機は優れた芸術品を書きたいと思ったというよりも、むしろ自分の住む惨めな東洋を一度知ってみたいと思う」気持ちからだったというのだ。
時代の渦に吞み込まれてなすすべもなく悲劇の淵に堕ちていく、そういう人間を見つめて撮ってきたロウ・イエにすれば、横光利一と想いは重なるような気がする。マルローの『人間の条件』を今撮れないのであれば、劇中劇の形でも『上海』は入れておきたい、そう考えたのではないだろうか。
プロダクションノート
晏 妮
続き
(日本映画大学特任教授)
これこそが実験性に満ちているロウ・イエの斬新なスパイアクションであるが、英語のタイトル通り、文学と映画を自由に闊歩して出来上がった、ロウ・イエでしか撮れない歴史のフィクションとなっている。本作を観た後は、アン・リーの『ラスト、コーション』に描かれた太平洋戦争勃発後の上海史に、ロウ・イエはいつか挑戦するだろうという期待を膨らませるばかりである。
プロダクションノート