最も創造的な9年
1954年にロンドンにサロンを開いたサスーンは “いかに変革するか”を独りで考えたという。 「従来のスタイルは確かに美しいが、私のスタイルではない。余分なものは排除し、根本的なカットと形にたどり着きたかった。9年かかった、1954年から1963年まで試行錯誤を続けた。人生で最も創造的な9年だった。9年の間にも停滞期は何度もあり、そのたびに“時間の浪費だ”と思った」
ナンシー・クワン
ウィリアム・ホールデン共演の映画『スージー・ウォンの世界』が大ヒットした直後、サスーンに、ナンシー・クワンの髪を切らないかという依頼があった。背中で揺れる長い髪をカットした。バックのトップレイヤーは短め、レイヤーごとにカットし、横は長めに残す。そうするとサイドから大きなアングルができる。頭を振っても元に戻る。ナンシー・クワンの写真はヴォーグ誌の表紙を飾り、アメリカ版やイタリア版でも採用され、新聞にも取り上げられた。
ファイブ・ポイント・カット
サスーンが生み出したスタイルで最も有名なのは“ファイブ・ポイント・カット”だろう。モデルはグレイス・コディントン。後にアメリカ版ヴォーグ誌のディレクターになった女性だ。“ファイブ・ポイント・カット”は9年間のサスーンの仕事の集大成で、ある意味でジオメトリック・カットの到達点と言える。
ベストセラー「美容と健康の1年」
ヴィダルは健康オタクで日常的に体を鍛えていた。 当時の妻ビヴァリーはヨガが得意、ヴィダルも体を鍛えていた。健康的な食生活を含め、ふたりのライフスタイルを描いた本だ。本は評判を呼び大いに売れた。発売から1年で販売部数は30万部に達し、1年半で計40万部が売れた。健康本では異例だった。
チェルシーFC
働き詰めだったヴィダルの楽しみは、チェルシーFCの試合だった。 「カウンセリングより効くよ。サッカーはチェスとバレエの要素を併せ持つ。動きながら考えを巡らせる必要がある。美容の仕事同様、チームワークが大切だ。いいチームは世界に羽ばたき、感動的なプレイをする。」
ヴィダル・サスーン・アカデミー
「人々が模倣するだけでなく方法論を学べば、それは永続的なものになる」という考えの元、1969年にアカデミーを作ったという。学校を作ると特に日本などアジアなど、世界中から生徒が集まった。 「次々と学校が増えていって、方法論が広まった。それが目的だった。一番大切なのは、次の世代に引き継ぐことだ。次の世代から、更にその次に受け継がれる」
“美容界のビートルズ”としてのニューヨーク進出
ヴィダルは、ニューヨークのマディソン街に“チャールズ・オブ・ザ・リッツ・ヴィダル・サスーン”をオープン。ヴィダルはチームをアメリカに連れて行った。アメリカの美容界はおくれていたため、流行の最先端を伝える存在と見なされた彼らは、“美容界のビートルズ”となった。
ヴィダルと映画の関係
カトリーヌ・ドヌーヴ主演、ポランスキー監督作品『反撥』は、サロンのバルコニーを使って撮影された。ポランスキーはその半年後に“ミア・ファローの髪を切ってくれないか?”と打診してくる。ミア・ファロー主演の『ローズマリーの赤ちゃん』のためだ。パラマウント・スタジオのボクシング・リングで髪を切ることになった。ミアがリングにあがり、ヴィダルがカットを始めるとマスコミが群がった。マスコミはリングに上がりあらゆる方向から撮影した。
マリー・クヮント
マリー・クヮントは、ミニスカートの他にも次々と作品を生み、欧米のファッションを変えた。若い女性が求めたものを鋭い感覚で形にした。マリーとヴィダルは協力関係にあった。1957年、ヴィダルの店を偶然のぞいたマリーは、ヘアスタイルの写真を気に入り髪を切ってもらう。