弟、アイヴァー・サスーンが生まれる。 | 1930 | 2歳 | |
父、ジャック・サスーンが出奔。叔母ケイティの家に身を寄せる。 | 1931 | 3歳 | |
孤児院に入る。 | 1933 | 5歳 | |
ホルトに疎開。 | 1939 | 11歳 | |
母が再婚。継父はネイサン・ゴールドバーグ。 | 1940 | 12歳 | |
ホルト村の英国空軍手袋工場のベヴィンズに就職。 | 1942 | 14歳 | |
ロンドンに戻る。 | 1942 | | |
| 1942 | | 当時イーストエンドのナンバーワンだった「アドルフ・コーエン・サロン」に入店。 |
| 1945 | 17歳 | ウエストエンドの美容サロン「マック&ジョージ」や「ヘンリ」など転々とする。 |
ユダヤ人退役軍人43名が組織した抗ファシズムの民兵組織「43グループ」に加入。 | 1946 | 18歳 | |
兵役のため、イギリス空軍に入隊。 | 1946 | 18歳 | |
| 1947 | 19歳 | 4ヵ所のサロンを転々とする。 |
7月、イスラエルへ渡る。突撃隊パルマッハの戦闘部隊に配属。 | 1948 | 20歳 | |
継父が心臓発作で倒れ、ロンドンに戻る。 | 1949 | 21歳 | |
| 1949 | | エッジウェア・ロードの美容サロン「ロメインズ」に入店。 |
| 1951 | 23歳 | アルベマール通りの美容サロン「デュマス」に入店。 |
| 1952 | 24歳 | 美容サロン「ハウス・オブ・レイモンド」に入店。 |
| 1954 | 26歳 | ヴィダル26歳の時、これまでの顧客がスポンサーになり、ボンドストリート108番地の3階に「ヴィダル・サスーン・サロン」をオープン。 |
サロンのレセプション担当のエイレンと結婚。 | 1956 | 28歳 | |
| 1957 | 29歳 | マリー・クヮントのファッションショーのヘアを担当する。 |
アイリス・ウォーレンにクイーンズ・イングリッシュのレッスンを受ける。 | 1957 | | |
エイレンと離婚。 | 1957 | | |
| 1958 | 30歳 | ニュー・ボンド・ストリート171番地の、より広いビルに「ヴィダル・サスーン・サロン」を移転。 |
| 1962 | 34歳 | グロブナー・ハウス・ホテルにサロンをオープン。 |
| 1963 | 35歳 | 女優ナンシー・クワンのヘアカットを担当。ヴォーグ誌に掲載される。 |
| 1964 | 36歳 | 「ファイブ・ポイント・カット」がヴォーグ誌に掲載される。 |
| 1964 | | エマニュエル・カーンのパリ・コレクションでヘアを担当。大成功をおさめる。 |
| 1964 | | ニューヨークのピエール・ホテルでのヘアショーに参加。本格的にアメリカ進出を果たす。 |
| 1965 | 37歳 | ニューヨークのマディソン通りに「ヴィダル・サスーン・サロン」をオープン。 |
| 1965 | | 「ヴィダル・サスーン・サロン」でロマン・ポランスキー監督がカトリーヌ・ドヌーヴ主演の『反撥』を撮影。 |
| 1965 | | エマニュエル・ウンガロの初めてのファッションショーのヘアを担当する。 |
「ザ・グリーク・ゴッデス」の大流行。 | 1967 | 39歳 | |
2月16日、21歳のアメリカの女優、ビヴァリー・アダムスと結婚。 | 1967 | | |
| 1967 | | ロマン・ポランスキー監督の『ローズマリーの赤ちゃん』で主演のミア・ファローのヘアを担当。 |
| 1967 | | スローン・ストリートにサロンをオープン。 |
ニューヨークで長女のカチャが生まれる。 | 1968 | 40歳 | |
| 1968 | | カナダのトロントに「ヴィダル・サスーン・サロン」をオープン。 |
| 1968 | | 拠点をニューヨークに移す。 |
| 1969 | 41歳 | ロンドンに初の「ヴィダル・サスーン・アカデミー」を開校。 |
| 1969 | | ロサンゼルスのビバリーヒルズにサロンをオープン。 |
1月17日、ニューヨークで長男のイランが生まれる。 | 1970 | 42歳 | |
| 1971 | 43歳 | サンフランシスコのグラント通りに「ヴィダル・サスーン・サロン」をオープン。 |
| 1971 | | サンフランシスコ、シカゴに「ヴィダル・サスーン・サロン」をオープン。 |
| 1971 | | ニューヨークのボンウッド・テーラー・デパート内に最初のメンズサロン「ヴィダル・サスーン・バーバー」をオープン。 |
| 1972 | 44歳 | マンチェスターにサロンをオープン。 |
6月、ニューヨークで次女のイーデンが生まれる。 | 1973 | 45歳 | |
| 1973 | | サンフランシスコのエリス通りにアメリカ初の「ヴィダル・サスーン・アカデミー」を開校。 |
| 1973 | | ヘアケア製品「ブラウンライン」を開発。キャンペーン広告デザインはアンディ・ウォーホルが手がける。 |
| 1973 | | ミュンヘンにサロンをオープン。 |
ロサンゼルスに拠点を移す。 | 1974 | 46歳 | |
| 1975 | 47歳 | ビヴァリーとの共著「美容と健康の1年」出版。全米ベストセラー・ランキング第3位になる。 |
3歳のアフリカン・アメリカンと東洋人のハーフ、デヴィッドを養子に迎える。 | 1975 | 47歳 | |
| 1975 | | テレビのトーク番組「月曜から金曜まで」で夫婦で水曜日の司会をつとめる。 |
| 1975 | | テレビのトーク番組「ザ・ビヴァリー&ヴィダル・サスーン・ショー」スタート。 |
| 1975 | | |
弟、アイヴァーがロンドンで心臓発作により亡くなる。 | 1976 | 48歳 | |
| 1976 | | ロンドンのブルック・ストリートにヴィダル・サスーン・バーバーをオープン。 |
| 1976 | | ハンブルグにサロンをオープン。 |
| 1977 | 49歳 | ミス・ユニバース世界大会の審査員をつとめる。 |
ビヴァリーと離婚。 | 1980 | 52歳 | |
| 1980 | | ヘレン・オブ・トロイより、ヴィダル・サスーンブランドのヘアアイロンなどの家電美容製品が発売。 |
ロサンゼルスのヘブライ大学内に「ヴィダル・サスーン反ユダヤ主義国際研究センター」を設立。 | 1982 | 54歳 | |
11月、ジャネット・ハートフォード・デイヴィスと三度目の結婚。 | 1983 | 55歳 | |
| 1983 | | リチャード・ヴィックス社にシャンプーなどのヘアケア商品部門を売却。 |
| 1983 | | サロンのトップの人材3人(クリストファー・ブルッカー、フィリップ・ロジャース、アニー・ハンフリー)にヴィダル・サスーンのサロンを買収できる権利(LBO:レバジッド・バイ・アウト)を与える。 |
| 1984 | 56歳 | ロサンゼルス・オリンピックでオフィシャル・ヘアコンサルタントとして二つの選手村にサロンをオープン。 |
ジャネットと離婚。 | 1985 | 57歳 | |
| 1985 | | P&Gがリチャードソン・ヴィックス社を買収 年間65日間プロモーションツアーをするという契約が2000年に心臓のバイパス手術するまでP&Gと続いた。 |
| 1986 | 58歳 | クリストファーが退社、残った二人が経営権を持つ。 |
| 1989 | 61歳 | シャンプー兼コンディショナー『ウォッシュ・アンド・ゴー』を開発、商品化。 |
1月1日、長女のカチャがドラッグの過剰摂取により33歳で死去。 | 2002 | 74歳 | |
| 2003 | 75歳 | 経営権を持つフィリップとアニーが美容界の大手企業リージス社に25店舗のサロンと4校のアカデミーを売却 ヴィダルの息子イランは二人に買い取りのオファーを出したがリージス社との契約が締結されたあとだった。 |
ハリケーン“カトリーナ”の救済活動「希望への鍵を開く美容師たち」キャンペーンを立ち上げる。 | 2005 | 77歳 | |
エリザベス女王から大英帝国勲章コマンダー「CBE」の叙勲を受ける。 | 2009 | 81歳 | |
映画『ヴィダル・サスーン』がトライベッカ映画祭でプレミア上映される。 | 2010 | 82歳 | |
白血病であることを公表。白血球と赤血球のバランスを維持する注射治療を行う。 | 2011 | 83歳 | |
5月9日、米ロサンゼルスの自宅で死去。 5月26日、映画『ヴィダル・サスーン』が日本公開。 | 2012 | 84歳 | |