私の本名はルシアン。
セルジュと名乗ったのはロシアへのノスタルジーだけ。
私はダンスホールのピアノ弾きの父と、
スラブの魅力をすべて備えた美しい母の間に生まれた。
たとえ私のルーツがロシア系ユダヤ人でも、
知性の面ではフランス人だ。
内なるゲンスブールは本名のギンズブルク。
“S”ではなく異端の“Z”が付く。
ゲンスブールがジキル、ゲンスバールがハイド。
気分しだいで人格が変わる。
本名ルシアン・ギンズブルク。
1928年、ユダヤ系ロシア人の父ジョセフと母オリアのもと、
パリ20区・中国通りの小さなアパルトマンで生まれる。
難解な曲を書けば、インテリと言われる。
平易な曲を書けば、商業主義だと言われる。
大衆に迎合したことはない。
私は1958年か60年に行動指針を決めたんだ。
“この職業で自分を認めさせてやろう”と。
大衆ではなく、職業にだ。
そのために私は難解な曲を書いた。
何年かしたら業界人を笑ってやるつもりで、
仲間入りしてやったのさ。
それこそが、シニズムさ。
彼は自らの作品とともに、
ジュリエット・グレコなどへの楽曲提供も積極的に行なっていく。
1964年にロシア皇族の元プリンセス、ベアトリスと2度目の結婚
(1967年に離婚)。
ブリジットと食事して、わざと酔い潰れた。
翌日、彼女が電話をくれ、
“なぜ酔い潰れたの?”。
私はポツリと
“君の美しさに圧倒されてね”。
すると彼女は
“あなたにとって最高の愛の歌を私に書いて”と。
その夜書いたのが
「ジュ・テーム・モワ・ノン・プリュ」、
そして「ボニーとクライド」だ。
ひと晩でね。
「ジュ・テーム・モワ・ノン・プリュ」は1968年、
恋愛関係にあったブリジット・バルドーによる
あえぎ声の演技とともにレコーディングされたが、
当時の夫ギュンター・ザックスの怒りを恐れたバルドーに発売を拒否された。
その後、ジェーン・バーキンとのデュエットにより日の目を見ることになる。
多くの映画に出たが、ほとんど駄作だった。
エイブラハム・ポロンスキーに会って、
映画や演出について話をした。
“映像センスがあれば、大丈夫”と言われたよ。
ミュージシャンとしての活躍以外にも、
映画『スローガン』に俳優として出演するなど、
俳優としても活動を展開。
また、バーキンを主演に
映画『ジュ・テーム・モワ・ノン・プリュ』(1976年)を
自身で監督する。
極右グループがこのコンサートを中止に追い込んだ。
私は屈しない。
「ラ・マルセイエーズ」に、本来の意味を甦らせた。
私と一緒に歌ってくれ。
ジャマイカでレコーディングを行った
アルバム『フライ・トゥ・ジャマイカ』の楽曲「祖国の子供たちへ」で、
フランス国家「ラ・マルセイエーズ」を
レゲエ・アレンジで歌ったことで、
1980年1月4日のストラスブール公演は、
右翼や機動隊が会場を取り囲む騒動となった。
私は15年前から可愛いロリータを探してた。
実はすぐ近くにいたんだ、娘のシャルロットが。
“ロリータを探してた”と言っても
肉体的な意味じゃない。
私はオペラで少女バレリーナを探すような
クソジジイとは違う。
自分でも理解できない、抽象的な探究心なのだ。
1984年、ジェーンとの間に生まれた娘シャルロット(当時13歳)
とのデュエットで「レモン・インセスト」をリリース。
1986年、プロデュースしたシャルロットのアルバム
『シャルロット・フォー・エヴァー』が発表される。
流行歌など、マイナー芸術だと軽蔑してたが、
ある夜、ボリス・ヴィアンが現れた。
彼の曲を聴いて思ったね、
“このスタイルなら、やってみる価値はある”と。
知的だし マイナー芸術じゃない。
それから曲を書き始めた。彼の影響さ。
1951年にモンマルトルの絵画アカデミーで知り合った、
詩人ジョルジュ・ユグネの秘書、
エリザベット・ルヴィツキーと結婚(1957年に離婚)、
建築や絵の勉強をした後、
1950年代よりクラブやキャバレーでギターとピアノの演奏を始める。
そこで聴いたボリス・ヴィアンをきっかけに
自ら作詞作曲を手がけるようになる。
ガキのフランス・ギャル。
彼女と私は'65年のユーロビジョンで優勝した。
「夢見るシャンソン人形」は画期的な曲だった。
ああいうコンクールの賞なんてバカげてると思うが、
ビートの利いた曲は初めてだったんだ。
あれで私は一躍、人気作曲家。
歌手に仕事をあてがう、客引きのオッサンだよ。
ギリギリの有害作品だよ。
1965年、フランス・ギャルのために書いた
「夢見るシャンソン人形」が大ヒットを記録する。
「ジュ・テーム・モワ・ノン・プリュ」の歌詞に
“肉体の愛は出口なし”というのがある。
地理的条件 女の股間は出口なし。
袋小路で行ったり来たり。
“肉体の愛は出口なし”
奔放なロマン主義だよ。
発売中止の事件により、バルドーとの関係も終わりを迎える。
小説『スカトロジー・ダンディズム』(1980年)は
絵画での心残りを断ち切る意味もあった。
あえて自己破壊に走る男。
彼は栄光を望み、栄光が彼を滅ぼす。
ある意味 自伝的小説だ。
1980年に初の小説『スカトロジー・ダンディズム』を発表。
“神”は複数形にすべきだ。
天国に、エホバでなくアラーがいたら怒るだろ?
アラーは偉大だがエホバは、もっとだ。
神は複数形にすべきだ唯一神なんぞ最低だ。
全てのアラブ人が地獄行きのわけない。
キリストなんて下町のユダヤ人さ。
ダダイスムの時代に遅れてきたのが悔しい。
嘲笑と無関心。
1981年には『フライ・トゥ・ジャマイカ』に続くレゲエ作品で、
「神とユダヤ人」などを収録する『星からの悪い知らせ』を発表。
同年、モデル・歌手のバンブーと同棲を始める。
私には精神分裂症的なところがある。
「ゲンスバール」の存在だ。
ショーマンで誠実な男。
この誠実さがなかったら、
私は絶対に、
今の若者たちに受け入れてもらえなかっただろう。
1991年3月2日、パリの自宅で心臓発作により永眠。
発言は『ノーコメント by ゲンスブール』より。
参考文献:『ゲンスブールまたは出口なしの愛』
(著:ジル・ヴェルラン、訳:永瀧達治+鳥取絹子)