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about the Movies

文:釣崎清隆(死体カメラマン)、結城秀勇(nobody)、五所純子(文筆家)、駒井憲嗣

イントロダクション

アンダーグラウンド映画の系譜において伝説的存在を欲しいままにする映像作家ケネス・アンガー。デレク・ジャーマン、ジャン・コクトー、ミック・ジャガー、デヴィッド・リンチ、デニス・ホッパー、ガス・ヴァン・サント、マーティン・スコセッシ、アンジェラ・ミッソーニ……時代を越え、ジャンルを越え、名だたるクリエイターにアンガーの呪術的イメージは今なお多大なる影響を与え続けている。

今回、劇場公開、リリースされる彼の映像作品の集成『マジック・ランタン・サイクル』には、神や道化師、無骨なバイカーたちといった様々な登場人物からなる映像作品が収録されている。

登場人物は異なれど、どれも彼が若き時代を過ごした無声映画全盛のハリウッド映画への憧憬と、現実の世界への疑い、居心地の悪さのようなものを重ねあわせ、夢の中の物語のようにロマンティックに仕上げている。一見攻撃的で反逆的なイメージの強い彼の映像だが、これらの作品からは、あくまで個人的な体験・自らの皮膚感覚を元にして制作されているのだろうというのが手に取るように伝わってくる。だからこそ、異端と呼ばれながらも、アンガーの表現は今なお強いインパクトを与え、インディペンデント映画を変革した人物として、これからも強い磁場を持って私たちを惹きつけて止まないのではないだろうか。

Who is ケネス・アンガー?

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1927年2月3日、カリフォルニア州サンタモニカ生まれ。本名Kenneth Wilbur Anglemeyer。三人兄弟の三男。

ハリウッドでサイレント映画の衣装担当として働いていた祖母の影響で、映画や芸術への興味を持ち始める。祖母の友人であったマックス・ラインハルトが監督した『真夏の夜の夢』(1936)には、子役として出演。10 歳頃から16 ミリカメラで映画を撮り始め、『Who Has Been Rocking My Dreamboat』(1941)や『Tinsel Tree』(1942)などを監督。ビバリーヒルズ高校を卒業した後、1947年に『花火』を製作。初の公開作品となる。

その後製作した、『プース・モーメント』(1949)、『ラビッツ・ムーン』(1950)、『人造の水』(1953)、『快楽殿の創造』(1954)、『スコピオ・ライジング』(1964)、『我が悪魔の兄弟の呪文』(1969)、『K.K.K. Kustom Kar Kommandos』(1970)、『ルシファー・ライジング』(1972)の9作品は『マジック・ランタン・サイクル』としてまとめられ、アンガーの代表作となった。1959年、アンガーはハリウッドのゴシップを書籍にまとめ『ハリウッド・バビロン』と題してパリにて発行。しかしアメリカでは1975 年まで発行されなかった。

1967年、チャールズ・マンソンの一味によりフィルムが盗まれたことによって映画製作への意欲を失い、ニューヨークのヴィレッジ・ヴォイス誌に“In Memoriam Kenneth Anger 1947-67” と書かれた自身の死亡記事広告を打つ。その後ロンドンに移り住み、ミック・ジャガーやマリアンヌ・フェイスフル等と出会い、映画製作を続けた。

1982年から1999年まではニューヨークを拠点に、『ハリウッド・バビロン2』(1984)の執筆や世界中の映画祭への出席など、映画製作から離れた生活を送っていた。しかし2000年に入ってからは映画製作に復帰、2011年現在までに既に10本以上のショートフィルムを完成させている。近年では、ロサンゼルスにてミュージシャンのブライアン・バトラーと共に、“ 光とサウンドの魔術的儀式” である「Technicolor Skull」を結成し、アンガーはテルミンを演奏、各地でライブを行っている。80歳を越えた現在も尚、アンガーはショートフィルムの製作を続けており、近年では軍服についての作品『Uniform Attraction』、サッカーのウォームアップを題材にした『Foreplay』、2003年に自殺した友人でもあるシンガー・ソングライター、エリオット・スミスについての作品『Elliott's Suicide』などを発表している。


A_PROGRAM (Total : 91min)

魔術的神秘家アレイスター・クロウリーに捧げられた『ルシファー・ライジング』、アナイス・ニン出演のサイケデリックムービー『快楽殿の創造』、ミック・ジャガーが音楽を担当した『我が悪魔の兄弟の呪文』など、アンガーのめくるめく悪魔的イメージサイド。




A1『ルシファー・ライジング』 (1980年/カラー/29分)

悪魔として浸透しているルシファーを光の天使として読み変え、書き変える作業がおこなわれている。これは宗教的に異端、美学的な反転であり、新たなる反世界の造形である。つまりケネス・アンガー流の創世記である本作は、世界各所を撮影地とするエキゾチシズムを引き寄せることで目新しいビジョンが提出されようとしているが、アンガーの著作が本歌取りしたであろう『イントレランス』(G.W. グリフィス、1916)における巨大バビロンの舞台装置、通称「ハリウッド・バビロン」の萎びた模造のようにも見えるから不思議である。反世界を目論む者の敬虔さが作品全体に不穏な安寧をもたらしているようにも見えるが、酩酊の混濁に満ちているようにも見える。当初ルシファーを演じていた少年は空を飛ぼうとして転落死、シャロン・テート殺害事件のマンソン一家の死刑囚であるボビー・ボーソレイユが収監中に録音した音楽など、神秘主義に魅せられた者たちの業が点滅する本作は、魔術的神秘主義者アレスター・クロウリーに捧げられている。 [五所]





A2『快楽殿の創造』 (1953年/カラー/38分)

アンガーがアレイスター・クロウリーの神秘思想や呪術的な儀式そのものをダイレクトに描こうと挑んだ作品。快楽殿を舞台に、アフロディーテ、リリス、イシス、カーリーなど、歴史上の人物や聖書の登場人物、神話上の生き物が勢ぞろいし、チェコの作曲家レオシュ・ヤナーチェクによるグレゴリック・ミサが響くなか、サイケデリックなビジョンが続いていく。魔術と神々とが入り乱れるイメージには、背徳的かつ逆らいがたい魅力がある。アーティスト/女優のマージョリー・キャメロンがスカーレット・ウーマンを妖艶に演じ、アスターテ役には、奔放な作風で知られる女性作家アナイス・ニンが扮している。他に映画監督のカーティス・ハリントン、そしてアンガー自身も出演。アンガーは初出バージョンののち、幾つかの改訂版を制作したが、ここにあるめまぐるしく変化する色彩や愉悦を浮かべる神々たちのフラッシュバックは、「狂乱のパーティー」のようなシチュエーションにおいて様々な映画で繰り返し引用されている。 [駒井]





A3『我が悪魔の兄弟の呪文』 (1969年/カラー/11分)

『スコピオ・ライジング』のレザー・ジャケットやバイクのボディ、『プース・モーメント』のドレス、果ては『ラビッツ・ムーン』のウサギのファーまで、ケネス・アンガーの作品の魅力はその被写体の肌触りにあると言っても過言ではない。そこに加えて、その素材感と近い親近性を持ちながらも完全にマッチしない、ドゥー・ワップからR&B、サイケなアシッド・フォークにまで至るサウンドトラックの組み合わせ(『スコピオ・ライジング』ではそのものずばり、革ジャンと「ブルー・ベルベット」の絶妙なカップリングが登場する)。そうした期待を込めて『我が悪魔の兄弟の呪文』を眺めると、かなりの登場人物が素っ裸なことと、ミック・ジャガーと悪魔の組み合わせが結構ほどよくなじんでしまうところが物足りない。やはり素肌に一枚なにか羽織ってこそ、タトゥーの質感も活きてこようというものだ。 [結城]





A4『人造の水』(1953年/カラー/13分)

盛装した女から迸る水飛沫が上空に向かって屹立する。羽根飾りを頭に突き立て、宝石を散りばめた女がひとり、チボリ公園を駆け巡る。約束の地に向かっているのか、それとも逃げているのか。急いている女の足取りをロココ調のドレスが重くする。『ラビッツ・ムーン』と同様に青いフィルターを通してプリントされた本作は、日中に撮影されながら月夜の仄暗い白さで作品世界を照らし出し、幻想性を高めるとともに、作品全体を水が覆いゆくかのような感触をもたらしている。ビバルディの音楽が緊張と高揚をもたらし、一方で錘のように効いているのは、瞬間ごとに変形しながら移動していく水とは対照的な石というマテリアルがもたらす堅牢な時間のせいか、あるいは祖母がデザインしてアンガーに着せていたものが再現されたというドレスが響かせる記憶の重層のせいだろうか。しまいには黒い影となって水に溶解する女は、人間と変わらぬ容姿をもつという水の精霊ウンディーネか。滝の白糸と彼女を結ぶのは、水だろうか、悲恋だろうか。 [五所]


B_PROGRAM (Total : 69min)

魅惑的なイメージと音楽のコラージュがミュージック・ビデオの原型と言われるアンガーの最高傑作『スコピオ・ライジング』、男がただただ改造マシン を磨き上げる『K.K.K.』、古き良き20年代のモード『プース・モーメント』、ほろ苦く甘いファンタジー『ラビッツ・ムーン』、アンガーが17歳で監督した『花 火』など、アンガーの憧れが詰まったフェティッシュ・サイド。




B1『スコピオ・ライジング』 (1963年/カラー/29分)

YZF1000Rサンダーエースは一九九六年にヤマハのワークスレーサーのシリーズ「YZF」を冠した同社のフラッグシップとして登場し、スーパースポーツのシーンを牽引してきた。時速三百キロを手もなく叩き出しながら、驚異の運動性能と走行安定性を実現している。破局は間もなく訪れた。四谷四丁目交差点で外苑西通りを右折せんと四車線を右端へ車線変更する。と前方に右折車が現れてゆっくりと白線を越えてきた。遅い。遅すぎる。ブレーキをかけるも見る間に距離を縮めていく。眼下のスピードメーターは時速百キロ近くを指していた。とっさの判断でサンダーエースを横倒しにして前方に放り出した。己の体はサンダーエースに少し遅れて同じように投げ出される。そしてサンダーエースは前方車のカマを掘り、おもちゃのように大破しながらフロア下にめり込んでいくのを目撃しつつ、自身も同様に前方車に向かって滑走していく。ケネス・アンガーの興味はしょせんバイクでなくバイク乗り。カウンターというよりアウトローバイカーという暴君の虜だ。 [釣崎]





B2『K.K.K. Kustom Kar Kommandos』 (1965年/カラー/3分)

初めて乗った単車はRZ250Rのノンカウルだった。2ストロークの官能を体現するYUZOクロスは、12000回転を超えてブラックゾーンまで回ってなお伸びる高い性能、ドライでメタリックな挑発的高音色もさることながら、そのヒトの〝はらわた〟のようにセクシーなクロスライン、曲面フォルムの美しさはほかに例えようがない。虹色に光る内臓を丸出しにしたネイキッドの車体にしがみついているあまりにも無防備な僕という存在は一体何者だろうか?単車とは実に不思議な乗り物だ。凶暴なスピードに全裸を暴露する趣味のための玩具だ。ブラックゾーンに突入したRZRは、過激でサディステイックに責め立てられた女のヒステリックな悲鳴を上げ、か細いフレームが尋常でなく過振動して、MDMAで沸騰死しそうな女のセクサロイド的誤作動で今にも臨界に達し、パーツというパーツがバラバラに空中分解してしまいそうだ。フェチの表現は精緻でなければ。筆者の美意識にかなうのは断然『暴力脱獄』の洗車シーンの方である。 [釣崎]





B3『プース・モーメント』 (1949年/カラー/6分)

プースとは、暗い茶色や紫がかった茶色のような陰りのある赤系統の色を指す言葉であるのだそうだ。この映画の女優が、色とりどりのきらびやかな衣装の中から選び出す一着のドレスの色。タイトル通り、この作品の根幹にあるのは色彩だ。プースのドレスが選び出されるまで延々観客の目の前をよぎっていく鮮やかな原色と、それについたラメやフリンジやドレープといった細部が、まるでその薄絹を直接肌に触れているかのような錯覚に陥らせる。ハリウッドで衣装係として働いていた祖母、彼女が働いていた20 年代のハリウッドへのオマージュが捧げられるこの作品。サイレント映画風に変えられた撮影スピード、プースという色や当時の香水瓶、そうした記憶の層の上に、ミッドセンチュリー的な色彩が咲き乱れる。さらにはそこに覆い被さるのがサイケデリックなサウンドトラックで、年代を飛び越えた幾つかの時間の層に包まれるのは、多分、祖父母の遺した衣類を戯れに身に纏ってみるような快楽なのかもしれない。 [結城]





B4『ラビッツ・ムーン』1950年バージョン (1950年/カラー/16分)

絶望的なまでに叶わない願いは人間を道化にし、その焦がれは胸焼けを起こさせ骨を溶かしかねないほどの甘さにでも包まない限り言い尽くすことができない。今では宇宙飛行士からIT 社長まで手が届くようになった月ではあるが、古来より月は遠近感を狂わせるような距離によって人を惑乱させ、冴え冴えとした青白い光で人心を射抜いてきた。それは、イタリアの即興喜劇コメディアン・デラルテにおいては月に憧れる道化というキャラクターを形成させ、日本では月の兎の伝説として親しまれているものだろう。それらが一同に会し、『月世界旅行』(ジョルジュ・メリエス、1902)の系譜にある意匠とともに、月にまつわる寓話が道化たちによって寡黙に演じられているのが本作である。悪夢に接近するほど幻惑的な効果をもたらしているのは、白黒フィルムを青いフィルターを通してプリントする手法だけではなく、ソースイートな男声によるポップ・ソングという定着液に浸けられているせいだろう。 [五所]





B5『花火』 (1947年/白黒/15分)

夜の波止場、花火のごとく間欠的なリズムで明滅する光の中で、裸の男を抱きかかえる水兵。アンガーが演じる主人公以外の全員が白い水兵服を着ていたり、行き交う車のヘッドランプが何度か挿入されたりと、夜と光が作り出すコントラストが非常に美しい。だが、夢と欲望と暴力を巡るこの作品が今なお観客を惹きつけるのは、夜の光を生み出す「火」の美しさよりも、もはややり過ぎの域にまで達する「火」の激しさの方だ。タバコの火を借りたら、わらの束につけた松明のような炎を差し出される。暴力シーンもSM 的な快楽を想像させるというより、指をつっこまれた鼻から吹き出す血の勢いだとか、精液の隠喩とかどうでもいいほどドボドボかけられるミルクの量そのものの方がすごい。花火は憧れの水兵の股間で爆発し、なぜか首から生えたクリスマスツリーの上で燃え上がる。この狂騒の一夜があってこそ、その翌朝、前夜の名残であるかのように恋人の顔の上で音もなく瞬く花火がとてもいい。 [結城]