この映画に携わる全ての人間は魂の戦士だ。最高の戦士を探す。
―アレハンドロ・ホドロフスキー
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サルバドール・ダリ/銀河帝国の皇帝
1904年、スペイン生まれ。シュルレアリスムの代表的な作家。「マドリードのサンフェルナンド美術学校で知り合ったルイス・ブニュエルとは、1928年にシュルレアリスムの代表的映画『アンダルシアの犬』を共同制作した。「天才」と自称して憚らず、数々の奇行や逸話が知られている。89年没。
<ホドロフスキーのコメント>
「NYのホテルで偶然ダリと遭遇した。私はタロットの本を読んでいたから、“吊られた男”のページを切り取って “一緒に映画を作りたい”と書いた。“君の映画に出る。だがハリウッドで一番ギャラが高い俳優になる。撮影1時間につき10万ドル欲しい”」
アマンダ・リア/イルーラン姫
1946年、香港にてイギリス系フランス人の父とロシアと中国のハーフの母の元に生まれ、フランスで育つ。ロンドン移住後モデルとして活動しつつ、ブライアン・ジョーンズ、デヴィッド・ボウイなどのロック・スターたちと浮名を流す。一方ダリとは、ガラ夫人公認で20年近くにも及ぶ愛人関係を持っていた。1975年には歌手デビューを果たし、ディスコ・クイーンとして君臨した。アマンダに関する謎は多く、「実は男なのでは?」と騒がれたこともあるという。
<ホドロフスキーのコメント>
「アマンダは私に親切で、味方になってくれた。“ダリは破壊的だから注意して。出演したら映画を台無しにする”と言われた」
ミック・ジャガー/フェイド・ラウサ
1943年、イギリス生まれ。結成52年を迎える世界的ロック・バンド、ローリング・ストーンズのヴォーカリスト。映画初出演作は1970年の『パフォーマンス/青春の罠』。1971年にエル・ジンで『エル・トポ』を観て熱狂したという話が伝えられている。
<ホドロフスキーのコメント>
「ある日、私はパリでパーティーに招待された。盛大なブルジョアの集まりだ。150平方メートルはある大きな部屋の向こう側にミック・ジャガーがいた。私は遠くから彼を見た。彼が私を見たような気がした。人混みをかき分けながら彼は歩き始めた。私の方に向かってね。そして目の前に立った。 “私の映画に出てほしい”。彼は言った“いいよ”」
ウド・キア/メンタート ピーター
1944年、ドイツ生まれの俳優。18歳でイギリスに移住。1966年に映画デビューを果たす。初期の代表作はアンディ・ウォーホルが企画製作した2本の異色怪奇映画『悪魔のはらわた』、『処女の生血』での博士、吸血鬼役。90年代以降、大作への出演が続いており、ラース・フォン・トリアー監督作品の常連でもあり、1991年から2024年まで毎年3分間ずつ撮影し完成させる“Dimension”と名付けられたプロジェクトも行っている。
<ホドロフスキーのコメント>
「アンディ・ウォーホルのファクトリーには有名人が集まった。ウォーホル作品で知られるウド・キアに会った。私の映画に出てくれると彼は言った」
オーソン・ウェルズ/ハルコンネン男爵
1915年、アメリカ生まれ。ハリウッドを代表する映画監督、脚本家、俳優。37年、『宇宙戦争』をラジオ・ドラマ化してニュース形式で放送。あまりにもリアルな演出のため、全米がパニックに陥るという現象を巻き起こした。41年『市民ケーン』を制作。アカデミー9部門ノミネートされ脚本賞に輝いた。しかし以降、映画監督としては良い評価が得られず、未完の作品も多い。85年没。
<ホドロフスキーのコメント>
「彼には悪評が立っていた。美食にかまけて映画製作が中止になったとね。しかし“彼しか考えられない”と私は譲らなかった。 “もう映画には出たくない”と言う彼に提案した。“出演料とは別にあなたのお気に入りのレストランのシェフを雇う”彼は承諾した」
デヴィッド・キャラダイン/レト侯爵
1936年ハリウッド生まれ。1970年代にテレビドラマ『燃えよ!カンフー』で一躍有名になった。この役をきっかけにして中国武術や東洋哲学の習得と研究に力を注いだ。2002、2003年にはクエンティン・タランティーノ監督の『キル・ビル』シリーズでビル役を演じ、人気を博していた。09年没。
<ホドロフスキーのコメント>
「LAのホテルで彼を待っていた。私は瓶入りのビタミンEを買って持っていた。500グラムの大きな瓶だ。健康のために1日1粒飲もうと思っていた。彼は私の部屋に入るとその瓶を見つけて言った。 “ビタミンEだ”そして私のビタミンEを全部飲んでしまった。60ドル分のビタミンEを。怪獣みたいに…。私は言った“君こそ私が探していた男だ”」
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メビウス(ジャン・ジロー)/絵コンテ、キャラクターデザイン
1938年生まれ、18歳のころから漫画を発表しはじめ、フランスの国民的漫画家となる。日本でも手塚治虫、宮崎駿、大友克洋など、日本の漫画にも多大なる影響を与えている。ホドロフスキーとの共作に『アンカル』『猫の目』『天使の爪』などがある。2012年没。
<ホドロフスキーのコメント>
「ある漫画本を見つけた。タイトルは『ブルーベリー』。読み始めて “私のカメラだ”と思った。“一体 誰だ?私が求めている人物だ。それでエージェントに会いに行ったら、偶然彼がそこにいたんだ。メビウスは私のカメラだ。私は彼に言う “前に進んで” “宇宙を旅する”“次はアップにして”。メビウスはまさに天才だった。素晴らしい才能のある画家だっただけでなく、描くのも速かった。あれはまるで神業だった」
H・R・ギーガー/建造物デザイン
1940年、スイス生まれのデザイナー/イラストレーター。73年にジャケットを手掛けたEL&Pの『恐怖の頭脳改革』が世界的にヒットしたため、『エイリアン』で有名になる前にギーガーのことを知った音楽ファンも多い。日本では88年~93年の間、白金にギーガーが内装を手がけたという「ギーガー・バー」という飲食店が存在した。
<ホドロフスキーのコメント>
「ダリがギーガーの作品集を見せてこう言った “彼には才能がある”。それを見て驚いた!悪役のハルコンネンのイメージ通りだったからだ。ゴシック風の惑星と人物たち。そして私はギーガーを捜しに行った。私は言った “君は魂の奥底に潜む深い闇を探求している。それが君が創る芸術だ。君の作品は邪悪な芸術だ。ハルコンネン男爵に必要な病んだ芸術だ”」
クリス・フォス/宇宙船デザイン
1946年、イギリス領ガーンジー出身のイラストレーター。建築を学び、独特な色使いの、おもに宇宙船がメインのイラストで知られ、アイザック・アシモフの「ファウンデーション」シリーズなど、SF小説の表紙イラストを多数手がけている。映画では『エイリアン』『スーパーマン』『A.I.』などに参加している。
<ホドロフスキーのコメント>
「宇宙船はすべて生き物だ。まるで昆虫や美しい鳥のように。そういう宇宙船が作りたかった。SF小説の表紙を見てクリス・フォスを知った。生き物のように魂を持った宇宙船だった。彼しかいないと思った」
ダン・オバノン/特殊効果
1946年、アメリカ生まれ。南カリフォルニア大学の映画学科に在籍中の1971年に、ジョン・カーペンターと短編作品『ダーク・スター』を共同制作する。1974年、『ダーク・スター』が商業映画として長編リメイク化。『DUNE』が頓挫した後、『DUNE』のアイデアをハリウッドに持ち込み映画化されたものが『エイリアン』だった。主な脚本作品に『トータル・リコール』(90年)、監督作品に『バタリアン』(85年)などがある。09年没。
<ホドロフスキーのコメント>
「ハリウッドの小さな劇場でSF映画を上映していた。『ダーク・スター』だ。“この男だ!” 私にとって大切なのは芸術で、技術はその次だ。 “すべて売ってパリに来なさい。人生が変わる”そして彼はパリにやってきた」
ピンク・フロイド/レト・アトレイデの音楽
1965年に結成されたイギリスのバンド。サイケ/プログレの代表格として絶大な人気を誇る。芸術的な側面で評価を得る一方で、『狂気』『ザ・ウォール』『炎〜あなたがここにいてほしい』がメガ・セールスを記録し、レコード・CD総売り上げは2億5,000万枚(2013年時点)におよぶ商業的にも大成功を収めたグループである。
<ホドロフスキーのコメント>
「メンバー4人は “どうも”と挨拶してそれきり黙々とハンバーガーを食べ続けた。私は彼らを罵った “君たちに任せようと思ったのは人類の歴史で最も重要な映画の音楽だ!世界を変える映画だ!ビッグマックなんか食べやがって、ふざけるな!”彼らは食べるのをやめて話し始めた」
マグマ/ハルコンネンの音楽
クリスチャン・ヴァンデ(ドラム/ボーカル/ピアノ)を中心に、1969年に結成されたフランスのプログレ・バンド。「宇宙からきたコバイア星人の言語」によるボーカルとスペース・オペラ的な長大な物語、個性的で強力なリズム隊と分厚く呪術的な混声合唱が特徴。85年に解散するも、96年再結成。2010年にはフジロックフェスティバルへ出演した。78年発売のアルバム『ウルゴンとゴルゴ~アターク』のジャケットをギーガーが手掛けている。
<ホドロフスキーのコメント>
「ハルコンネンの惑星の音楽はパリで決めた。マグマの音楽はゴシックで軍隊的で恐ろしい」
ミシェル・セドゥー/プロデューサー
1947年フランス生まれ。フランスの映画会社パテの会長、ジェローム・セドゥーと、ゴーモンの会長、ニコラス・セドゥーは兄にあたり、女優のレア・セドゥーは大姪にあたる。映画のプロデューサーのほかにも、フランスのサッカーチーム、LOSCリール・メトロポールの会長も務める。主なプロデュース作品はアラン・レネ監督『恋するシャンソン』(97年)、ニキータ・ミハルコフ監督『シベリアの理髪師』(98年)など。ホドロフスキーのDUNE企画時には、弱冠28歳であった。
<ホドロフスキーのコメント>
「“どんな作品でもいい”と彼は言った。“何が作りたい?”“「デューン」だ”。彼も賛成した」