スターリンの粛清で父親を喪った主人公が、自分に奨学金を与え、
生きる道を備えてくれたドイツに対して行った「恩返し」。
それがドストエフスキーの長編小説の翻訳であった、ということに驚いた。
時間を惜しみ、一つ一つのものを慈しむ彼女の生活ぶりと、
共同作業としての翻訳が実に興味深い。
─ 松永美穂(早稲田大学教授・ドイツ文学翻訳家)
スヴェトラーナ・ガイヤーは、言葉や行為はむろん、
その住まいや持ち物まで、静かな威厳と、優しさに満ちている。
あたたかく毅然としたその姿を見ていると、
彼女がすぐれた翻訳者かどうかすら、どちらでもいいことに思えた。
─ 柴田元幸(アメリカ文学研究者・翻訳者)
スヴェトラーナにとって翻訳とは命の息吹き。アイロンがけも、レース編みも、
料理も、呼吸することすら翻訳なのだ。彼女の料理を見ればその哲学がわかる。
色彩の深み、精密に決められた具材の大きさ、手ざわり、火の入れ加減、
熟考の末の迷いのない手順……。こんな料理人が翻訳の達人でないわけがない!
─ 鴻巣友季子(翻訳家・エッセイスト)
過去と現在の間を行きつ戻りつしながら、
ひとりの翻訳家の波乱に満ちた人生が淡々と描かれる。
スターリンとヒトラーに翻弄されながらもたくましく生き抜いてきた彼女にとり、
言葉は究極の本質への憧れを形にしてくれるものだ。
翻訳という作業を通して未知のものが見えるという寸言に共感を覚える。
─ 野谷文昭(東京大学名誉教授・ラテンアメリカ文学翻訳家)
〈言葉だけ理解しても足りない〉
〈全体を見て、愛さなければ〉
〈誰でも一度は言葉を話す魚に出会う〉
……皺だらけの手をもつ彼女が時おり放つ言葉の、なんと鋭く味わい深いことだろう。
本当に尊く、神々しい。心の底から憧れを感じました。
─ 岸本佐知子(翻訳家)
数奇な人生を乗り越え、
丁寧に静かな時を刻んでゆく彼女は、まるで大木のよう。
その大木には言の葉が美しく茂り、かすかな風にも波打ち輝く。
彼女のまっすぐな眼差しが導きだす言の葉は気品に溢れ、
冬の時代でさえ芳醇な香りを放つ。
─ きむ ふな(日本・韓国文学翻訳家)
スヴェトラーナの年老いた背は丸まっているけれど、まなざしと言葉は凛としてうつくしい。
ドストエフスキーの産んだ5頭の巨象に対峙する、カルヴィーノと同い年の女性翻訳者の、
静かなたたずまいに漲る自信に、こちらの背筋が伸びる。
さて、それにしてもスヴェトラーナの内で響くのは、果たしてドイツ語なのかロシア語なのか。
─ 和田忠彦(東京外国語大学教授・イタリア文学翻訳家)
彼女は、すべての権力と鋭く対立したドストエフスキーの精神を受け継ぎ、
現代の政治家たちが「人道や安全のためだとして犯罪行為を正当化する」ことを強く批判する。
一方、彼女は日常において、翻訳と直接関係のない豊かな時間を過ごしている。
私たちは、この厳しさと余裕を見習いたい。
─ 飯塚容(中央大学教授・中国文学翻訳家)
翻訳とは、コンマ一つの打ち方にこだわるような微細な仕事でありながら、同時に、癒やされない痛みと、断ち切ることのできない憧れを魂の内に抱え込んで生きることでもある。この映画が教えてくれるのは、言葉への愛だけではない。究極的には、私たちがよく生きるために、深く生きるためにどうしたらいいか、ということなのだ。
─ 沼野充義(東京大学教授・スラヴ文学者)
テクストとはことばの織物である。翻訳家はその事実をだれよりも直接的に体験する者だ。織糸をほどいては紡ぎなおす作業は、ときとして人生そのもののような貴さを帯びる。84歳の女性翻訳家の美しく澄んだ瞳に、異国の言葉と対話し続けた一生の豊饒を見た。
─ 野崎歓(フランス文学者・翻訳家)
青いガラスのような目が「キラツ」と光った時、
口元がゆっくり開き「翻訳するのは憧れである」。と言い切った。
その憧れの「翻訳」の仕事をするために彼女が選んだ種類の人材もまた、独特であり秀逸であつた。
スクリーンの向こう側から私達は彼女の命の授業を受けているのである。
─ 北村道子(スタイリスト)
翻訳家スヴェトラーナの生涯を、彼女自身が語る事で、
言葉が一つ一つ美しくしなやかな生き物のようだった。
胸が閊えるような情景をも映し出し、それはまるで行間を味わう小説のよう。
─ 道端カレン(モデル)
世界中にたくさんのマフラーがある。温もりという用途は同じでも、編む人や編み方によって趣きは様々だ。世界中にたくさんの文学がある。翻訳家は言葉という糸を検証し、編み目を見極め、模様をためつすがめつ眺める。趣きを変えぬよう、心を砕く。過酷な歴史を凛とした生き様と言葉の力でかいくぐった翻訳家スヴェトラーナの人生。この映像の編み物は、僕の心を静かに暖めてくれた。
─ 野村雅夫(ラジオDJ、翻訳家)
素晴らしい海外文学と出会うたびに喜びと同じ強度でもどかしさがあった。
翻訳者なしでは手の届かぬオリジナル、究極の本質への憧れを抱きつつ、
もどかしさは代償なのだと思うことで語学力の乏しさをうやむやにしていた。
けれどそれは間違いだった。
翻訳された物語を読むということは、訳者の人生、かれらに関わった人々をも同時に受け継ぐことだった。
本作を通してスヴェトラーナはそのことを、まざまざと私に気づかせた。
気づいてしまったことにおののきながら、同じ強度で、これはなんという喜びであるのかと思った。
いま自分には、幸福しかありません
翻訳の営みそのものが、
日常生活のなかでの細やかな気配りと深くこだましあう。
法悦にも似た喜びのなかで、半ば無意識の連想のなかから紡ぎだされる美しい箴言の数々――。
ことによると、空しい時の流れのなかで持続するこの無償の美しさへの憧れから、
人は、翻訳者をめざすのかもしれない。
─ 亀山郁夫(名古屋外国語大学学長・ロシア文学者・翻訳家)