84歳の翻訳家スヴェトラーナが織り成す深く静かな言語の世界と、紡がれる美しい言葉たち――。 ドストエフスキー文学と共に歩んだ一人の女性の数奇な半生を追ったドキュメンタリー
84歳の翻訳家スヴェトラーナ・ガイヤーの横には、華奢な姿に不似合いな重厚な装丁の本が積まれている。『罪と罰』、『カラマーゾフの兄弟』、『悪霊』、『未成年』、『白痴』、言わずと知れたロシア文学の巨匠・ドストエフスキーの長編作品。それらを"五頭の象"と呼び、生涯をかけてドイツ語に訳した。1923年ウクライナ・キエフで生まれ、スターリン政権下で少女時代を過ごし、ナチス占領下でドイツ軍の通訳者として激動の時代を生き抜いた彼女は、なぜドストエフスキーを翻訳したのだろうか?一人の女性が歩んだ数奇な半生にひっそりと寄りそう静謐な映像が、文学の力によって高められる人の営みをたおやかに描き出す。
ロシア文学の巨匠ドストエフスキーの長編5作とは?
(スヴェトラーナはこれらを五頭の象と呼びロシア語→ドイツ語に訳しました)
罪と罰 カラマーゾフの兄弟 白痴 未成年 悪霊
翻訳のプロフェッショナル、ドイツの名翻訳家スヴェトラーナ・ガイヤー 一つ一つの言葉を丹念に選び出す
心を揺さぶる研ぎ澄まされた語感と、作家への絶対的な敬意によって築かれた彼女独自の翻訳スタイル。その極意は、学生の頃にドイツ語の先生が教えてくれた「翻訳する時は、鼻を上げなさい」だ。この極意をスヴェトラーナは今でも忠実に守っている。
「翻訳というのは言葉を右から左へ移し替える尺取虫だけじゃダメよ、原文に寄り添い、一度すべてを自分の中に取り込む、つまり心で読み込まなきゃならないの」と彼女は語る。オリジナルの文章の意味だけでなく、間や空間、原作者の描いた情景を忠実に描き出すため、舞台となった小説の街を旅して、その土地の人々の暮らしぶりや地形を把握したというスヴェトラーナ。撮影当時、84歳でも熱意は変わらず文学翻訳の可能性と限界に、濃密な時間と情熱を注ぎこむ。
スヴェトラーナ・ガイヤー
1923年-2010年、享年87歳。ロシア文学をドイツ語に翻訳する名翻訳者。"5頭の象"と称されるドストエフスキーの5大傑作小説の新訳は、ドストエフスキー文学に新しい声を与えたと言われ、彼女のライフワークであり、ドイツ文学界の偉業と称賛されている。
どんなに苛酷な運命でも、本が好きだから乗り越えられた 文学への深い愛情が描かれる
本好きだった少女が、母の勧めでドイツ語を習い、スターリンとナチスに揺れた激動の近代ヨーロッパを生き残るため、敵軍の"通訳者"として言葉を駆使し、家族を守った。そして、時代が落ち着いたとき、故郷ウクライナを離れ、見知らぬ街で自分自身を見出していくために使ったのが、また文学の力だった。深い悲しみや、絶望に打ちひしがれず、人生に光明を見出すことになった彼女の文学への深い愛情が描き出されていく。
凛とした生き方を感じさせる、美しさへのこだわり Text=Txtile "TEXT(文章)"と"TEXTILE(織物)"は同じラテン語の"織る"から生まれた
もともと生地を表す"テキスタイル"と、文章を表す"テキスト"は同じラテン語の"織る"が語源。一つ一つ糸が密に絡み合い、織り重なり生地が出来る。文学もまた言葉の織物だと、スヴェトラーナは語る。本作では、翻訳家歴40年の彼女の仕事風景と共に、その静かな暮らしぶりが描かれる。使いこまれたリネンや、気が遠くなるような細かく編まれたレース、古いロシア調の家のあちこちに彼女の"こだわり"が溢れている。オリジナルを追い求める翻訳家によって選び抜かれた雑貨たちが、小さな家で彼女に寄り添うように静かに時を刻んでいる。この住居も彼女によって織り出されたひとつの美しい"テキスト"といえる。