見終った途端、もう一ぺん見たくなった。
長い監督生活の中でこんなことは滅多にない。
ホドロフスキー監督は、母親のお腹の中にいるときから超現実主義者だったのかもしれません。7ヶ月になった頃には羊水の中で目を見開き、キョロキョロしながらこう考えていたことでしょう。“この単調な暗闇は本当につまらないな...”そして、その次の月には“誰が私をこんな監獄に入れたんだ?脱出してやろう。わたしは自由が欲しい!”そんな超現実主義者の待望の新作のタイトルはなんと『リアリティのダンス』です。
彼は歳をとって現実主義者になったのでしょうか。だからといって驚くことはありません。なぜならそれは”ダンス”だからです。
この美しき愉快な映画は最初から最後まですべてが“ダンス”です。
俳優だけでなく、カメラの動きも、被写体の色も、日差しまでもがすべて“ダンス”なのです。首吊り自殺した人がブラブラと動くのも“ダンス”。すべてのセリフが歌であり、音楽なのです。大きな怒鳴り声も歌となり、銃声ですら音楽となるのです。この莫大なエネルギーが一体どこからくるのか知りたければ、ドキュメンタリー『ホドロフスキーのDUNE』をご覧下さい。ホドロフスキーは、死んだにもかかわらず、約二百年後にお棺を壊しよみがえる者だということがお分かりいただけるでしょう。彼は魔術師であり、錬金術師であり、戦士であり、ツァラトゥストラ。どんな事もできる上に超現実主義者。”死ぬ”なんて退屈すぎて耐えられないことなのですから。
1971年にニューヨークで「エル・トポ」を観た夜は眠れなかった。映画館の中はパンドラの箱が開いたような騒ぎだった。その後「ホーリー・マウンテン」を実体験し、今度は「リアリティのダンス」だ。この映像を言葉にする能力は僕にはない。「頭の声ではダメ、自分の内側から出す純粋な声」、と映画の中で語らせるホドロフスキー。言葉を無化する彼の肉体感覚は彼の中に宿る少年の魂である。その少年の魂こそが心の声である。思わず眼をそむけたくなるシーンに出くわした時、私たちはそこに真の現実と対峙していることを忘れてはならない。「よく見ろ」、現実を直視せよ、そしてあなた自身を知れ!この映画は主人公に与えられた試練ではなく、映画を共有する私たちに与えられた試練であることを認識しなければならない。
頭でっかちの理屈人間は観ない方がいいだろう。「神はいない、死んだら腐るだけだ」。あとは知らん、そんな映画だった。
まず題名に惹かれました。見終わってみると、まさに題名通りの映画だということが分かりました。事実はときに劇的ですが、あくまで冷静で踊らないと思います。でも事実に根ざしながらも、事実から解放されて踊るのが現実です。事実は私たち人間の外部に確固としてあるものですが、現実は私たち人間の外部だけでなく、内部にも流動的に生き生きと存在するものだと思います。
ラテンアメリカ文学でおなじみの、超現実的で幻想的な筋立てとイメージは、見る者を幻惑すると同時に、その先にある私たちの魂にかかわるリアリティへと導いてくれます。子どものように無邪気で、子どものように過去にも未来にも夢中になっている愉快で元気なホドロフスキー85歳、2歳年下の私には共感するセリフがいっぱいあります。
彼はこの映画を撮ることで、自分のトラウマを癒し、一族の闇を癒し、異様な偏りを持つ人物たちだった両親を癒しています。あらゆる暗喩とめくるめくイメージを使って、フロイト的なものと呪術を絶妙にごっちゃにする手法も健在!そして自分の人生をある意味では完成させたと言えるでしょう。全ての意味で目に見えない魔法がたくさんつまった映画です。これを観ることができてほんとうによかったと神に感謝したい気持ちです。私の人生はホドロフスキーに強い影響を受けているので、ここに至るまでの彼の人生の深みやこの映画が実現した奇跡を思うと、歳をとるのがすごく楽しみになってきました。
ホドロフスキーが新作を撮ったと聞いて、奇跡だと思った。あの幻のSF映画『DUNE』 が製作中止になったとき、この中断は神か悪魔か、どっちの思惑なんだ? と世を呪ったものだが、この自伝映画を観て、はっきりわかった。こうなった原因は神でも悪魔でもない、すべてがリアリティであるからだ、と。
リアリティほど残酷で気まぐれな力はない。この父親を持ち、この母親から生まれたのは、偶然にすぎないのだが、「自分」というリアリティが起動した瞬間から、すべては「運命」に変わる。だが、さらに奇怪なのは、リアリティを受け入れた段階で「過去」という名の「幻(ファンタジー)」にも変容することだ。ホドロフスキーが一家総動員で作り上げたリアリティが、いま一本のマジカルで美しい映画になった。今度は、観たわれわれが、それを自身のリアリティに戻さないと、ホドロフスキーとのダンスは終われない。
日本での公開当時、『エル・トポ』はキッチュアートの最高峰だと評されていて、もちろん、僕もそのように大好きだった。ハリウッドに対抗できるケレンを見せながら、物語としてハリウッド的なものを拒否している、僕にはそのように見えていた。だから、仕事を始めた頃から、いつも頭の片隅にホドロフスキーの作品があった。ある意味、ホドロフスキーは僕の『神様』だった。
しかし、今作『リアリティのダンス』を観て、こんなにも時代に繊細であったことに、今更ながら気づかされた。ケレンよりも『心の共感』があった。今の、このネット映像時代に、こんな映像体験ができたことに驚いた。震えた。全てが美しかった。癒された。やっぱりホドロフスキーは僕の『神様』だった。
原作の自伝を読んだとき、少年時代の想像力の出入れの有り様を、よくぞ言葉のARのように上等に書いたものだと感心した。「聖なる悪辣」と「過激な畏怖」もほどよくリミックスされていた。それにくらべると青年期以降のことは、次から次に出てくる思想芸術家たちの顔触れこそファンタスティックではあったけれど、中身は前衛大人のエクリチュールになりすぎていた。
実は今度の23年ぶりの映画には、きっと執拗と一人よがりを見せられるのだろうと予想して、あまり期待していなかった。なにしろアレハンドロの自伝映画なのである。寺山修司だって苦労した。こういうことはフェリーニやウッディ・アレンに任せておいたほうがいい。
ところが見てみて、驚いた。原作の少年期だけを抜き出して、抒情魔法のようにみごとに蘇らせていた。記憶の中の家族、配役にあてた家族、本人の家族幻想とが三重になって、音楽テキスタイルになっている。生まれ育った港町トコピージャの時間を泊めた風情が人着映像になっている。抑制も効いている。ナラティビティも細部まで見える。登場人物たちの役づくりもいい。なによりも心が攫(さら)われた。アレハンドロ、映画もうまくなったじゃないか。みんなも、見るといい。
ホドロフスキーの作る映像や物語はとても魔術的だ。『ハリー・ポッター』などのような魔法をあつかったおもしろい映画は幾つもあるが、ホドロフスキーの魔術はその対極にあるようである。
本編『リアリティのダンス』で、海に向かって伸びた桟橋は、宇宙に向かって伸びているようであり、漂泊する魂が行き来するよりどころのようでもあり、これを見ているだけで切なくなる。
子供たちが海でオナニーをする。これは、象徴的に木の棒が使われているのだが、主人公の少年のみ、その先の形状が他と違って丸くなっている。もちろん、説明はないが、これで、少年が割礼をすませているユダヤ教徒ということがわかるのである。
父親の放浪は、まるで、オイディプスやオデュッセウスのたどった神話の旅をなぞる旅のようでもある。
これがそのまま魂の再生の旅となっているのだが、その様子が、なんともなんとも、ホドロフスキーなんだなあ。
ああ、ホドロフスキーに100億円出して好きなように映画を撮らせてやろうという大金持ちはどこかにいないものか。
チリの親子三人の精神と政治の遍歴を映画の魔法だらけで描き、笑わせゾッとさせ心震わす。自分が『エル・トポ』とかを観た時代、ラテンアメリカ文学の文脈で考えてなかったなあと今さらながら。マジックリアリズムの、そのリアリティ!(Twitterより)
フリークス、道化、断髪。
今までホドロフスキーがその美しい映像の中に何度も差し込んできたメタファーです。しかしそれらがあまりに難解、かつ衝撃的だったため、数十年前の世界は彼に「カルトムービーの開祖」なんて称号を与えたのでした。しかし、この傑作『リアリティのダンス』をもって、その謎はいよいよ解かれたのです!
我々ファンが、そしてなによりホドロフスキー自身が探し求めたその答えは、彼の故郷(セットではなく実際の生家を再建して!)と家族の記憶がもたらせました。また、それを演じるキャストやスタッフにも自らの血縁を配する、という徹底したリアリティ。そう、まさしくタイトル通りの!
ホドロフスキーにとって現実という「肉体」はいつだって損傷し、醜く欠けていたのです。わずか100年足らずの人生、わずか100分ちょっとの映画。そのあいだに美しく伸びては無残に切り落とされる頭髪も、ぼくらと芸術の関係によく似ています。儚い人間の儚い夢とリアリティのダンス、映画の真髄。
「エル・トポ」を観たのは御多分に洩れず18歳の頃。自分も「カルトな存在になりたい!」といきがっていた時なので、そりゃあドンピシャでした。そして今回の「リアリティのダンス」。ホドロフスキーも歳をとったけれど、こちらも歳をとり、父にもなった。以前とは違い、結構しみじみと見ました。ホドロフスキーと自分との、歴史的・地理的・個人的違いを噛み締めながら。だって舞台は地球の裏側、こちらは少年の彼を疎外した、ピノキオではなくバナナを持った黄色人種ですからね。とはいえさすがラテン育ち、時代考証はたぶん意図的にテキトーなんだろうし、全編音楽に満ちてテンポ良く、ほとんどギャグみたいなシーンも織り交ぜた陽性の映画。楽しかったです。まったく、ホドロフスキーみたいに「殺しても死なない」感じのジジイになりたいもんだけど、無理だろうなあ……。
オリヴェイラより下だが、ゴダール、アレンより年長である<消えた監督>が見せる驚異の狂い咲き。全く老成を感じさせない多産系エネルギーに満ちた、今や世界でもほぼ唯一の名実共にカルト監督。総てが成功した松本人志。エログロをたっぷり盛ったフェリーニのアマルコルド。半世紀で反復する末期ルイス・ブニュエル。『DUNE』の喪失という映画史上屈指の分岐点からの40年、リンチ版の公開から30年という凍結された時間を、何のエクスキューズもなく解凍する天真爛漫さと、俗っぽいほどの拝金主義への呪詛。余りにも解りやすい受難劇のストーリーと、精神分析と宗教哲学との決して溶け合わないアマルガム。代表作からの引用であるかの様な、懐かしくも恐怖と覚醒に満ちたワイドショットの数々、何より登場人物である末息子によるオリジナル音楽の素晴らしさと、劇中ただ一人だけ、本作をオペラとして総ての台詞を歌で表現するソプラノ歌手パメラ・フローレスによる歌唱が織りなす映画音楽美は圧倒的。
<誤植のお詫びと訂正>
弊社発行の『ホドロフスキー新聞 vol.3』(6月上旬配布)にて掲載の菊地成孔さんのコメントに誤植がありましたので、ここに謹んで訂正いたします。
(誤)「オリヴェイラより、ゴダール、アレンより年長である<消えた監督>が見せる驚異の狂い咲き。」
(正)「オリヴェイラより下だが、ゴダール、アレンより年長である<消えた監督>が見せる驚異の狂い咲き」
菊地成孔さん並びに読者の皆様には、ご迷惑をおかけいたしましたことを深くお詫び申し上げます。
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コメント
(敬称略、順不同)
見終った途端、もう一ぺん見たくなった。
長い監督生活の中でこんなことは滅多にない。
―山田洋次(映画監督)
ホドロフスキー監督は、母親のお腹の中にいるときから超現実主義者だったのかもしれません。7ヶ月になった頃には羊水の中で目を見開き、キョロキョロしながらこう考えていたことでしょう。“この単調な暗闇は本当につまらないな...”そして、その次の月には“誰が私をこんな監獄に入れたんだ?脱出してやろう。わたしは自由が欲しい!”そんな超現実主義者の待望の新作のタイトルはなんと『リアリティのダンス』です。
彼は歳をとって現実主義者になったのでしょうか。だからといって驚くことはありません。なぜならそれは”ダンス”だからです。
この美しき愉快な映画は最初から最後まですべてが“ダンス”です。
俳優だけでなく、カメラの動きも、被写体の色も、日差しまでもがすべて“ダンス”なのです。首吊り自殺した人がブラブラと動くのも“ダンス”。すべてのセリフが歌であり、音楽なのです。大きな怒鳴り声も歌となり、銃声ですら音楽となるのです。この莫大なエネルギーが一体どこからくるのか知りたければ、ドキュメンタリー『ホドロフスキーのDUNE』をご覧下さい。ホドロフスキーは、死んだにもかかわらず、約二百年後にお棺を壊しよみがえる者だということがお分かりいただけるでしょう。彼は魔術師であり、錬金術師であり、戦士であり、ツァラトゥストラ。どんな事もできる上に超現実主義者。”死ぬ”なんて退屈すぎて耐えられないことなのですから。
―パク・チャヌク(映画監督)
1971年にニューヨークで「エル・トポ」を観た夜は眠れなかった。映画館の中はパンドラの箱が開いたような騒ぎだった。その後「ホーリー・マウンテン」を実体験し、今度は「リアリティのダンス」だ。この映像を言葉にする能力は僕にはない。「頭の声ではダメ、自分の内側から出す純粋な声」、と映画の中で語らせるホドロフスキー。言葉を無化する彼の肉体感覚は彼の中に宿る少年の魂である。その少年の魂こそが心の声である。思わず眼をそむけたくなるシーンに出くわした時、私たちはそこに真の現実と対峙していることを忘れてはならない。「よく見ろ」、現実を直視せよ、そしてあなた自身を知れ!この映画は主人公に与えられた試練ではなく、映画を共有する私たちに与えられた試練であることを認識しなければならない。
頭でっかちの理屈人間は観ない方がいいだろう。「神はいない、死んだら腐るだけだ」。あとは知らん、そんな映画だった。
―横尾忠則(美術家)
まず題名に惹かれました。見終わってみると、まさに題名通りの映画だということが分かりました。事実はときに劇的ですが、あくまで冷静で踊らないと思います。でも事実に根ざしながらも、事実から解放されて踊るのが現実です。事実は私たち人間の外部に確固としてあるものですが、現実は私たち人間の外部だけでなく、内部にも流動的に生き生きと存在するものだと思います。
ラテンアメリカ文学でおなじみの、超現実的で幻想的な筋立てとイメージは、見る者を幻惑すると同時に、その先にある私たちの魂にかかわるリアリティへと導いてくれます。子どものように無邪気で、子どものように過去にも未来にも夢中になっている愉快で元気なホドロフスキー85歳、2歳年下の私には共感するセリフがいっぱいあります。
―谷川俊太郎(詩人)
彼はこの映画を撮ることで、自分のトラウマを癒し、一族の闇を癒し、異様な偏りを持つ人物たちだった両親を癒しています。あらゆる暗喩とめくるめくイメージを使って、フロイト的なものと呪術を絶妙にごっちゃにする手法も健在!そして自分の人生をある意味では完成させたと言えるでしょう。全ての意味で目に見えない魔法がたくさんつまった映画です。これを観ることができてほんとうによかったと神に感謝したい気持ちです。私の人生はホドロフスキーに強い影響を受けているので、ここに至るまでの彼の人生の深みやこの映画が実現した奇跡を思うと、歳をとるのがすごく楽しみになってきました。
―よしもとばなな(作家)
ホドロフスキーが新作を撮ったと聞いて、奇跡だと思った。あの幻のSF映画『DUNE』 が製作中止になったとき、この中断は神か悪魔か、どっちの思惑なんだ? と世を呪ったものだが、この自伝映画を観て、はっきりわかった。こうなった原因は神でも悪魔でもない、すべてがリアリティであるからだ、と。
リアリティほど残酷で気まぐれな力はない。この父親を持ち、この母親から生まれたのは、偶然にすぎないのだが、「自分」というリアリティが起動した瞬間から、すべては「運命」に変わる。だが、さらに奇怪なのは、リアリティを受け入れた段階で「過去」という名の「幻(ファンタジー)」にも変容することだ。ホドロフスキーが一家総動員で作り上げたリアリティが、いま一本のマジカルで美しい映画になった。今度は、観たわれわれが、それを自身のリアリティに戻さないと、ホドロフスキーとのダンスは終われない。
―荒俣宏(作家)
日本での公開当時、『エル・トポ』はキッチュアートの最高峰だと評されていて、もちろん、僕もそのように大好きだった。ハリウッドに対抗できるケレンを見せながら、物語としてハリウッド的なものを拒否している、僕にはそのように見えていた。だから、仕事を始めた頃から、いつも頭の片隅にホドロフスキーの作品があった。ある意味、ホドロフスキーは僕の『神様』だった。
しかし、今作『リアリティのダンス』を観て、こんなにも時代に繊細であったことに、今更ながら気づかされた。ケレンよりも『心の共感』があった。今の、このネット映像時代に、こんな映像体験ができたことに驚いた。震えた。全てが美しかった。癒された。やっぱりホドロフスキーは僕の『神様』だった。
―幾原邦彦(アニメーション監督/『輪るピングドラム』)
原作の自伝を読んだとき、少年時代の想像力の出入れの有り様を、よくぞ言葉のARのように上等に書いたものだと感心した。「聖なる悪辣」と「過激な畏怖」もほどよくリミックスされていた。それにくらべると青年期以降のことは、次から次に出てくる思想芸術家たちの顔触れこそファンタスティックではあったけれど、中身は前衛大人のエクリチュールになりすぎていた。
実は今度の23年ぶりの映画には、きっと執拗と一人よがりを見せられるのだろうと予想して、あまり期待していなかった。なにしろアレハンドロの自伝映画なのである。寺山修司だって苦労した。こういうことはフェリーニやウッディ・アレンに任せておいたほうがいい。
ところが見てみて、驚いた。原作の少年期だけを抜き出して、抒情魔法のようにみごとに蘇らせていた。記憶の中の家族、配役にあてた家族、本人の家族幻想とが三重になって、音楽テキスタイルになっている。生まれ育った港町トコピージャの時間を泊めた風情が人着映像になっている。抑制も効いている。ナラティビティも細部まで見える。登場人物たちの役づくりもいい。なによりも心が攫(さら)われた。アレハンドロ、映画もうまくなったじゃないか。みんなも、見るといい。
―松岡正剛(編集工学研究所所長)
ホドロフスキーの作る映像や物語はとても魔術的だ。『ハリー・ポッター』などのような魔法をあつかったおもしろい映画は幾つもあるが、ホドロフスキーの魔術はその対極にあるようである。
本編『リアリティのダンス』で、海に向かって伸びた桟橋は、宇宙に向かって伸びているようであり、漂泊する魂が行き来するよりどころのようでもあり、これを見ているだけで切なくなる。
子供たちが海でオナニーをする。これは、象徴的に木の棒が使われているのだが、主人公の少年のみ、その先の形状が他と違って丸くなっている。もちろん、説明はないが、これで、少年が割礼をすませているユダヤ教徒ということがわかるのである。
父親の放浪は、まるで、オイディプスやオデュッセウスのたどった神話の旅をなぞる旅のようでもある。
これがそのまま魂の再生の旅となっているのだが、その様子が、なんともなんとも、ホドロフスキーなんだなあ。
ああ、ホドロフスキーに100億円出して好きなように映画を撮らせてやろうという大金持ちはどこかにいないものか。
―夢枕獏(作家)
チリの親子三人の精神と政治の遍歴を映画の魔法だらけで描き、笑わせゾッとさせ心震わす。自分が『エル・トポ』とかを観た時代、ラテンアメリカ文学の文脈で考えてなかったなあと今さらながら。マジックリアリズムの、そのリアリティ!(Twitterより)
―いとうせいこう(作家・クリエイター)
フリークス、道化、断髪。
今までホドロフスキーがその美しい映像の中に何度も差し込んできたメタファーです。しかしそれらがあまりに難解、かつ衝撃的だったため、数十年前の世界は彼に「カルトムービーの開祖」なんて称号を与えたのでした。しかし、この傑作『リアリティのダンス』をもって、その謎はいよいよ解かれたのです!
我々ファンが、そしてなによりホドロフスキー自身が探し求めたその答えは、彼の故郷(セットではなく実際の生家を再建して!)と家族の記憶がもたらせました。また、それを演じるキャストやスタッフにも自らの血縁を配する、という徹底したリアリティ。そう、まさしくタイトル通りの!
ホドロフスキーにとって現実という「肉体」はいつだって損傷し、醜く欠けていたのです。わずか100年足らずの人生、わずか100分ちょっとの映画。そのあいだに美しく伸びては無残に切り落とされる頭髪も、ぼくらと芸術の関係によく似ています。儚い人間の儚い夢とリアリティのダンス、映画の真髄。
―志磨遼平(ミュージシャン/ドレスコーズ)
「エル・トポ」を観たのは御多分に洩れず18歳の頃。自分も「カルトな存在になりたい!」といきがっていた時なので、そりゃあドンピシャでした。そして今回の「リアリティのダンス」。ホドロフスキーも歳をとったけれど、こちらも歳をとり、父にもなった。以前とは違い、結構しみじみと見ました。ホドロフスキーと自分との、歴史的・地理的・個人的違いを噛み締めながら。だって舞台は地球の裏側、こちらは少年の彼を疎外した、ピノキオではなくバナナを持った黄色人種ですからね。とはいえさすがラテン育ち、時代考証はたぶん意図的にテキトーなんだろうし、全編音楽に満ちてテンポ良く、ほとんどギャグみたいなシーンも織り交ぜた陽性の映画。楽しかったです。まったく、ホドロフスキーみたいに「殺しても死なない」感じのジジイになりたいもんだけど、無理だろうなあ……。
―会田誠(美術家)
オリヴェイラより下だが、ゴダール、アレンより年長である<消えた監督>が見せる驚異の狂い咲き。全く老成を感じさせない多産系エネルギーに満ちた、今や世界でもほぼ唯一の名実共にカルト監督。総てが成功した松本人志。エログロをたっぷり盛ったフェリーニのアマルコルド。半世紀で反復する末期ルイス・ブニュエル。『DUNE』の喪失という映画史上屈指の分岐点からの40年、リンチ版の公開から30年という凍結された時間を、何のエクスキューズもなく解凍する天真爛漫さと、俗っぽいほどの拝金主義への呪詛。余りにも解りやすい受難劇のストーリーと、精神分析と宗教哲学との決して溶け合わないアマルガム。代表作からの引用であるかの様な、懐かしくも恐怖と覚醒に満ちたワイドショットの数々、何より登場人物である末息子によるオリジナル音楽の素晴らしさと、劇中ただ一人だけ、本作をオペラとして総ての台詞を歌で表現するソプラノ歌手パメラ・フローレスによる歌唱が織りなす映画音楽美は圧倒的。
―菊地成孔(音楽家/文筆家)
<誤植のお詫びと訂正>
弊社発行の『ホドロフスキー新聞 vol.3』(6月上旬配布)にて掲載の菊地成孔さんのコメントに誤植がありましたので、ここに謹んで訂正いたします。
(誤)「オリヴェイラより、ゴダール、アレンより年長である<消えた監督>が見せる驚異の狂い咲き。」
(正)「オリヴェイラより下だが、ゴダール、アレンより年長である<消えた監督>が見せる驚異の狂い咲き」
菊地成孔さん並びに読者の皆様には、ご迷惑をおかけいたしましたことを深くお詫び申し上げます。
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