プロダクションノート
映画ANPOは様々な形で巡り会った日本のアーティスト達のおかげで作ることができた作品です。彼らはこの映画の為に無料で作品を提供してくださり、本音でインタビューに答えてくれました。この映画を作る際、一番の問題はあまりにも膨大な数のアートと素晴らしいコメントをどうやって短くまとめるかということでした。日本の輝く「文化遺産」を、このような形で映画として表現できたことを何よりも光栄に思います。
会田誠さんとはNYで彼の通訳を何度か務めることで知り合いました。2008年に彼が、International Photography Centerの写真家のパネリストとして招待された折に彼の通訳も務めました。 通訳は「間合い」がとても重要です。会田さんの壇上での絶妙なパフォーマンスとしか言えない、とんがった語りっぷりを「えいさ、ほいさ」の間隔で訳しながら、何故か子供時代の懐かしい「餅つき」を想い出しました。 会田さんの辛辣でユーモアたっぷりの主張を期待して京都で取材したら、やけにマジメな答えばかりで、正直ビックリしましたが、おかげさまで映画の切り口となる台詞を頂けて、感謝しています。
横尾忠則さんと初めて会ったのは15年くらい前に、彼がNYのジャパン・ソサエティーでトークをした時にやはり通訳を務めた時でした。彼が壇上で背後のスクリーンに写っていた作品のスライドをエネルギッシュに歩きながら説明しているときに、何かの拍子に躓いて、横で座っていた私の膝に座り込んでしまいました!その時、きょとんとしていた私に、「ここ居心地いいから、ずっと座っててもいいですか?」とマジメに聞かれたのを、私がマジメに英訳したら、客は大笑い。それがきっかけで横尾さんの東京のアトリエに呼ばれるようになりました。ANPOの取材を持ちかけたら、「60年安保は覚えてますよ。あれは戦場のような体験だった」といきなり話だし、アトリエでのインタビュー中には思いがけずTIME誌の表紙を断った話までして頂きました。
石内都さんと初めて出会ったのは2008年に彼女が撮った横須賀の写真をアメリカで写真集にする出版社からの依頼でインタビューをした時でした。真冬なのに、真夏のような嵐の直後に、「何故横須賀の写真を撮ったのですか?」という最も初歩的な質問に対して、彼女は「私は高校時代、横須賀で絶対に行ってはいけない場所があって、それはドブ板通りという米兵の歓楽街だったの。何故行ってはいけないか?それは、行くと米兵に強姦されるから。」彼女の言葉を聞いた私はとことんショックでした。米国人として日本に生まれ育った私には絶対の安全が保証されていました。しかしそれを保証していたのは石内さんのように米軍基地の周辺に住む日本女性を脅かしていた米兵の存在だったことにハッと気づかされたからです。この映画の取材をお願いしたとき、「解ったわ。それじゃあ、私が写真を撮った横須賀のドブ板通りを案内してあげるね」と、彼女から提案してくれたおかげで、「何故こんなに一杯基地があるの?」という映画の本質的な問いかけに最も因んだ場所で撮影することできました。
東松照明さんの長崎の写真を初めて見たのは1994年のNYでの展覧会でした。そこで、小学生の時に広島の原爆投下の事実を知らされ、子供ながらに「加担者」としての意識を覚えたとてもイヤな体験後、ずっと避けて通ってきた被爆者達の表情に出会い、深いショックを覚えました。東松さんの写真には「被害者」としての被爆者というより、たまたまある日、長崎にいた一人の人間としての佇まいが写っていて、そんな彼らからずっと逃げてきた自分が恥ずかしくなりました。どういう経緯で、このような写真を撮ることになったのか知りたくて、当時、千葉県に住んでいた東松さんに会いに行き、お話をきかせてもらいました。そうすると、仕事として長崎に撮影に行ったその時まで原爆の被害について殆ど知らなかった彼が、被爆者の方達に会った時のショックと、その後、「巡礼者のごとく」、毎年、個人的に彼らの撮影を続けたことを淡々と語ってくれました。まさか、15年後に、東松さんから同じようなお話をこの映画で取材させてもらうとは想像もできませんでした。
串田和美さんは映画にちょっとだけ顔を出してくださっている中村勘三郎さんの「中村座」のNY公演の際、歌舞伎の英訳を依頼されたことで紹介を受けました。串田さんには、初めて試みる歌舞伎の英訳についてとても優しく教えてくれた人という印象がありました。映画の企画を立てながら、ふと串田さんのことを想い出し、電話をかけて、「60年安保について、もしかして記憶がありますか」と打診したら、「実は僕は高校生としてデモに参加したんだよ。そして、もの凄い偶然で、半年前に高校の同級生から、当時僕らが書いた『安保についての僕らの考え』という文章が物置からでてきたので、それをもらったばかりだ。興味ある?」と聞かれて飛び上がって喜んだ記憶が鮮明です。串田さんがとても嬉しそうに当時の思い出を話してくれたことで、60年安保に参加し、濱谷浩さんの写真にも写っている高校生達の体験をより鮮明に蘇らせることができました。
朝倉摂さんには、夫の冨沢幸男さんから紹介していただきました。カメラマンの山崎裕さんから、1960年の安保闘争の時、自主的に集まった監督や映画を勉強していた学生が撮った素材を使った記録映画があることを聞きました。調べてみたら、その映画の監督の一人を務めたのが冨沢さんで、彼を訪ねたら、「あの時は撮影隊がそれぞれの現場からカメラと余ったフィルムを持ち寄って撮ったんだよ。」と懐かしそうに語ってくれました。彼は当時映画を編集して以来、一度も見ていなかったので、試写室で見てもらいいろんな記憶を話してもらうことになりました。彼との話の最中に、「君はきっと僕の妻と気があうよ。彼女も当時、毎日デモに参加していたしね。」と、紹介していただいたのが朝倉さんでした。彼女のインタビューの中で、思いがけずアメリカ人の亡き歌手、ポール・ロブソンに出会った時の感動をそのまま屏風画に描いた話を聞けたおかげで、60年安保の精神は世界にも通用するものだったことを表現することができました。唯一、残念なのは、彼女のアトリエで出会った、とても凛とした愛猫「リアー」の映像を映画の中で使いきれなかったことです。
比嘉豊光さんは沖縄在住の写真家ですが、たまたま石内都さんの展覧会で紹介していただいた人です。沖縄の佐喜眞美術館を訪れた際、比嘉さんのベトナム戦争時代の写真展を開催しており、撮影しても良いか訪ねたら、美術館の館長が、「比嘉さんは近くに住んでるから電話しますよ」と気軽に声をかけてくれたので、ご自作の写真の前でインタビューすることができました。比嘉さんの話の中にも出てきますが、沖縄の取材でとてもショックだったのは、普天間基地やトリイステーションという海兵隊の基地の大半は、65年前、沖縄戦の終わる前から米軍が住民を追い出し、家を焼き払い、米軍基地として接収されていた事実です。沖縄で今日までも海兵隊が武器を持って上陸訓練を行っている光景を見た時、つくづく感じたことは、沖縄ではあの戦争はずっと続いているということです。
佐喜眞加代子さんは、佐喜眞美術館を訪れた時、アシスタント・ディレクターの砂田麻美が「リンダさん、屋上が大変なことになっています。」と教えてくれたので、駆け上がったら、修学旅行の学生に向かってメガホンで安保や普天間基地について喋りまくっていました。彼女のスピーチの内容があまりにも私の映画の本質にピッタリだったので、山崎さんが彼女や学生を撮影をしながら、内心、「やった!」と思いました。この映画は最初からナレーター無しで構成すると決めていたので、佐喜眞さんのように、ごく自然に、尚かつ劇的に映画のテーマについて語ってくれる人の存在は貴重です。
深作欣二監督とは生前、監督の映画の字幕を担当した縁で、結局15本以上も字幕を担当し、大変刺激された方でした。深作さんのヤクザ映画の映画字幕を立て続けに5本も書いたあげく、妙に喧嘩っ早くなった記憶もあります。深作さんの傑作、「仁義なき戦い」の闇市のシーンを映画で使わせて頂いたのは、実はあの映画ほど進駐軍時代の米兵の乱暴な行動を露骨に描いた作品が殆ど無いからです。特にアメリカでは戦後の一つの神話として“日本の進駐軍の米兵はいたってジェントルマンで、女性を尊敬した"ということになっています。でも事実を調べて行くと違うのですね。終戦時に15歳だった深作監督は米兵の乱暴が目に焼き付いたと語っていました。2003年に監督が亡くなられた時、たまたま日本にいたので、お葬式に参列できました。何千人もの人達に熱く見守られながらこの世を去って行った深作さん…本質的なテーマの映画を作る時、どれほどの勇気と覚悟が必要かを教えてくださった貴重な人です。
武満徹さんは映画には出演していませんが、実は本編に武満さんの作曲した「死んだ男の残したものは」を脚色したメロディーが何回か流れています。武満さんとは生前、彼の映画音楽をテーマにしたドキュメンタリーのスタッフとして知り合い、大変感動しました。その作品が完成した直後に武満さんは他界されましたが、インタビューの中で、戦時中、学徒動員の疎開先で、友達に勧められて、押し入れの中で、当時禁じられていたフランスのシャンソンを聞いて、「この戦争を生き延びたら、絶対に音楽家になる」と決心された瞬間のエピソードが忘れられません。ANPOを企画中、親友から武満さんがベトナム戦争中に書いた反戦の歌がぴったりだと勧められ、初めて聞いた時、武満さんの戦争を毛嫌いする気持ちは一生続き、亡くなった今日にも響き続いていると深く感動しました。ご遺族の厚意により使わせて頂けて本当に感謝しています。