1963年竣工。ハンス・シャロウン設計による。ホールは五角形の施設でヴィンヤード型の大ホールの収容人数は2440席。ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の定期演奏会だけでなくジルベスターコンサートなどの特別演奏会も開催される。
なぜこの建物を選んだか?
ベルリンにある2つの建物が選択肢としてあって、どちらもハンス·シャロウンの設計によるものだった。ベルリン・フィルハーモニー・コンサートホールと「ベルリン·天使の詩」で使った国立図書館だ。コンサートホールを選んでよかった。1963年に完成した豪華な建物だというだけではなく、完成してから50年という節目に建物を撮ることができたからね。建設当時は革新的な建築物で、ホール中央で音楽が演奏される初めてのコンサートホールだった。50年後の今でも、斬新でモダン、息をのむほど美しく、現代的なものの象徴となる存在だ。しかし、かつては夢物語の建物に思われていた。というのも、ベルリンの中心であるポツダム広場に作られる予定だったからだ。ここは第二次世界大戦後、不毛地帯となった場所だ。建設中に突然、ベルリンの壁が築かれたため、このコンサートホールは何十年も孤立してしまった。だからとても歴史的にも意味のある建造物なんだよ。
1945年ドイツ生まれ。1982年「ことの次第」でヴェネチア国際映画祭金獅子賞受賞。1984年「パリ、テキサス」でカンヌ国際映画祭パルム・ドール受賞。1987年「ベルリン・天使の詩」でカンヌ国際映画祭監督賞受賞。2012年「Pina/ピナ・パウシュ踊り続けるいのち」がアカデミー賞長編ドキュメンタリー賞ノミネート。この作品は3D撮影でも話題をよんだ。親日家としても知られており2006年には表参道ヒルズで写真展「尾道への旅」開催。
ロシア最古の公共図書館であり、1795年時の皇帝エカチェリーナ2世によって建てられた。図書館が公式に開館したのは1814年になってのことだが、この時には女性や農民に対しても分け隔てなく誰に対しても開かれていた。
なぜこの建物を選んだか?
建築を扱った映画では、何もない剥き出しの家を見かけるけれど、僕にとって、それは空っぽの家でしかないんだ。図書館ほど、あらゆるものがいっぱい詰まったところはないよ。人間の英知で満たされているのが図書館だからね。僕らはヴァチカン図書館とオックスフォード大学のボドリアン図書館を候補にあげていたのだけど、どちらの本も厳重に保管されていた。初めてロシア国立図書館に入った時、撮りたいのはこれだとすぐにピンときた。あそこの本は誰に対しても開かれていて、図書館全体が僕らを迎え入れてくれていた。さらにポイントは図書館員たちだった。ほとんどが年配の女性だったけれど、私物を職場に持ち込んだりして、図書館が彼女たちの生活の中心のようだった。西側諸国では、そのようなことをするのは有り得ないことだけどね。まだデジタル化が進んでいないため、彼女たち図書館員の蔵書や目録に対する知識が、図書館の頭脳と言ってもいい。彼女たちがいてこそ、図書館は活きてくるんだよ。
1959年生まれ。サンフランシスコアートインスティチュートとウィーン映画アカデミーで学んだ後、監督・脚本家として活躍。2006年の『Slumming』でベルリン国際映画祭コンペティション部門ノミネート、2011年の『Whores' Glory 』ではオーストラリアン・フィルムアワードでベストドキュメンタリー賞を受賞した。2014年4月、1年かけて世界を旅し制作するドキュメンタリーの撮影中、アフリカでマラリアに倒れ、本作が遺作となった。
世界でもっとも社会福祉や人権が進んでいる固の一つであるノルウェーは「世界一豊かで住みやすい国」1位に国連によって選ばれている。そして受刑者に世界一人道的であり、甘やかしているとも言われるこのハルデン刑務所は2010年に竣工。収容人数252名、総工費20億円。刑務所の施設はかなり充実した設備であり、懲罰よりも更生・社会復帰を目的としている。
なぜこの建物を選んだか?
「強制排除」という究極の手段において、社会が囚人たちをどのように扱うのかを見ることができるのが刑務所だ。ノルウェーのハルデン刑務所(2010年設立)について興味深い点は、刑務所が更生(社会復帰)することを前提に設計されていることだ。収容される犯罪者たちは、最終的に善良な市民となり、そこを出ていくのだ。この考え方がここでは徹底されており、タイム誌で「世界でもっとも人道的な刑務所」として紹介された。
この社会復帰を目指した「理想的な建造物」は、国の考え方を表す見本のようなものなのだ。ハルデン刑務所は、文化的な歴史的建造物と呼ばれるような建築の傑作というわけではなく、華々しさというものが何もかも排除されている。100年前から設けられるようになった刑務所では、権力が誇示されていたが、ハルデン刑務所はその対極にあった。もちろん、それは権力が存在しないことを意味するのではなく、この施設では権力というものが行使されないということだ。権力のそういったイメージというものは、社会の自己認識とどう関係するのか。
1971年生まれ。スウェーデンの作家ストリンドベリの戯曲をベースにした、都市と景観を空撮した『To Damascus』(2005年)など、コンセプチュアル・アート&ドキュメンタリ一作品を発表し続けている。 2009年には、フィンランドのオルキルオト島で世界初高レベル放射性廃棄物の永久地層処分場のドキュメンタリー『100,000年後の安全』を制作。
1963年竣工。ジョナス・ソークによって創設された生物医学系の研究所。カリフォルニア州サンディエゴ郊外のラホーヤに位置する、私立の非営利法人である。カリフォルニア大学サンディエゴ校のキャンパスの隣に位置している。研究者の数が1000人にも満たない小規模の研究所であるが、常に研究論文の引用度は世界でも1、2を争う。教授陣は各研究分野の先端を走っているといわれる。
なぜこの建物を選んだか?
いくつか候補として考えた建物はあったが、最後まで引っかかっていたのが、(サンディエゴ郊外の)ラホヤにあるソーク研究所だ。私はこの場所からそう遠くないロサンゼルスで育ったので、建物の存在は知っていた。まだポリオ感染の脅威が蔓延していたころのことだ。私が11歳のとき、軽症のポリオにかかってね。ジョナス・ソークがワクチンを開発したときは、すごいニュースになったよ。この建物はユークリッド的というか、幾何学的で、鋭角が多用されていて、ダイナミックで力強い。2つの翼の間にある通路は、非常にパワフルで、海や空に永遠に続いているかのように見える。だから私は、才能豊かなアイデアマンである撮影監督のエドワード・ラックマンに頼んだんだ。この建物をあらゆる角度からロマンチックに撮れないかってね。
1936年生まれ。俳優として下積み生活の後1969年、アメリカン・ニューシネマの傑作『明日に向って撃て!』に出演、興業的に大成功を収める。一躍スターダムに上り詰めた。1980年には初監督映画『普通の人々』でアカデミー監督賞を受賞。翌1981年、ユタ州のパークシティに若手映画人の育成を目的としてサンダンス・インスティテュートを設立し、サンダンス映画祭を開催。
2008年、市の中心にあるオスロの貧困地区の河岸に隣接して、スノヘッタ(建築事務所)の設計によるエレガントで新しい建物が完成した。オスロ・オペラハウスはノルウェーのオペラやバレエの舞台であり、フィヨルドから離れた場所に位置し、どこまでも続くかのように見える大理石の天井や、すばらしいインテリアを見るためにたくさんの人々が訪れる。建物の驚くようなデザインは、内部と外部の空間的な仕切りがないようである。
なぜこの建物を選んだか?
街に新しい建物ができると、誰もがそれを話のタネにするものです。もしオスロに来ることがあったら、このオペラハウスに行くことをお勧めします。眺めて、あたりを散策して、中に入ってみてください。まさに(オスロ文化の)“発着”の場なんです。オペラハウスはこの近隣住民の夢だったんです。オスロの闇の部分は覆い隠され、この白い大聖堂(建物)が建っています。だからこそ、私は映像で“死”を表現して、その後に何ができたかを描きたいと思ったんです。スノヘッタ の建築家たちは、ノルウェーの社会民主主義の真価を建物に反映させようとしました。そのひとつが、平等です。私がこのオペラハウスがユニークだと思うのは、外側と内側を平等に重要視しているところで、それぞれに楽しむことができます。ここに来た人たちは芸術を享受し、フィヨルドや街の景観を楽しめるだけではなく、オペラハウスそのものを楽しむことができます。この建物自体がアート(芸術作品)ですから。
1970年ノルウェー生まれ。ベルゲンとオスロでジャーナリズムとドキュメンタリーの制作を学ぶ。作品では社会的、政治的な問題を取り上げている。初作品『The Angel』は、2010年ノルウェーのオスカー(アカデミー賞)にノミネートされた。最新作品は『Nowhere Home』で2013年ノルウェー・フィルム・アワードを受賞した。
レンゾ・ピアノとリチャード・ロジャースによって設計され、1977年開館。大衆の期待や陽気なユートピアが表現されており、幅の広いカルチャーを提供し、多くの人が訪れる。これから旅に出る旅行者の興奮したエネルギーで満ちた空港のように、センターは、アート・ギャラリー、アーカイブ、ライブラリー、パフォーマンス・スペース、シネマ、レストラン、展望広場などへ訪れる人々に、期待どおりのスリルを与え鼓動を高鳴らせる。
なぜこの建物を選んだか?
個人的につながりがある建物の映像を撮りたいと思っていて、いろいろ考えて自分にとって特別な場所であるポンピドゥー・センターに決めたんだ。私は80年代半ば、17歳のとき、パリに来て住み始めたが、あの建物と広場は、私にとって非常に重要な位置を占めるようになった。あそこは、あらゆるものがあり、何もかもを包み込むような空間がある。メインホールは、極めてユニークな空港の発着ロビーを思い起こさせる。そこから豊かで、複雑で、そして魅力的な現代の文化への旅を始めることができるからね。センターにあるギャラリーや映画館、劇場、すべての展示スペースへとつながっている。私にとってポンピドゥー・センターは、現代美術への旅の入り口であり、またシェルターの役割を果たしているんだよ。いわば、文化的実験の場だ。だからポンピドゥー・センターを個性のある生き物のように、細かな部分や、複雑でそして矛盾したところなどすべてを映像に収めたかったんだ。あそこは、常に空間的にも時間的にも我々を未来にいざなう場所なんだ。
1966年ブラジル生まれ。ブラジルで建築、ニューヨークでフィルムを学ぶ。フィクションやドキュメンタリー映画の監督や、脚本の書き方を指導している。監督デビュー作である『Madame Sata』は2002年にカンヌ国際映画祭の「ある視点」部門(Un Certain Regard)で上映された。新作品は『Praia Do Futuro』で、2014年のベルリン国際映画祭でプレミア上映された。