『天安門、恋人たち』を終えてすぐに『スプリング・フィーバー』の脚本に取りかかったのですが、一部のプロデューサーは「5年間の映画制作禁止となった以上、中国の映画館で上映することもできないのにどうやって新しい映画の資金を得るのか」と心配し、「5年後に話し合おう!」と言いました。しかし幸いなことに、結局はフランスと香港から、必要なだけの映画制作資金を確保することができて、自由に映画を制作することができたのです。ただ、映画館で上映できないのは本当に残念で、国内で上映するために本当に多くの監督たちが苦心しているのです。例えば、凄く良いと思うカットもやむを得ず削除してしまうこともあるし、電影局を説得し自分の好きなシーンを残そうと必死に頑張る監督もいる。監督たちがそういうことに気を使いすぎて、撮るということに全力を注げなくなってしまうのはとても悲しいです。『パープル・バタフライ』のときは、電影局から四十数か所、修正箇所が提示され、何度も何度も話し合いを持って頑張ったのですが、結局三箇所だけ修正しました。最終的に審査には通りましたが、中国では、私だけでなく多くの監督が面倒な事に対面しているのです。
『天安門、恋人たち』で、5年間の追放処分を受けたときは、ほんとうに電影局や、表現の自由に対する中国の決定に対して腹を立てた。でもそれによって中国の検閲制度を世界に知らしめることができたのです。私は映画監督という職業は決して禁止されてはいけない職業だと思っています。ずっと撮り続けるべきだと。
最初は、同性愛を取り上げるつもりはありませんでした。しかし、脚本家のメイ・フォンと議論していく中で、愛の範囲をもっと自由に大きく考えるようになりました。
過激な性描写自体を描きたいと思っているわけではありませんが、もし二人の間の愛情の中に性描写が必要だという場合、その性愛と愛情が密接な関係を持つ場合、それは映画の中で見せなければならなりません。もちろん、不必要ならば入れなくてもいい。この映画は人と人との間の身近な日常を描いた、純粋なラブストーリーなんです。
脚本のメイ・フォンは『パープル・バタフライ』の時に脚本顧問をしてもらい、その後、『天安門、恋人たち』で共同脚本、そして本作では彼に脚本を担当してもらいました。メイ・フォンは非常に素晴らしい脚本家です。彼が関わることによって、この映画がとても自由になっていると思います。今回はまず、最初に彼が第1稿をあげて、その後、撮影の現場でも俳優の様子を見ながら絶えず修正を加え、そして撮影が終わって編集の段階でも彼が立ち会っていろいろな意見を出してもらうというようなコラボレーションをしました。ですからこの映画制作自体が、小説を書いたり、脚本を書くのと同じようなものだと考えています。
作品中に郁達夫の作品が朗読されていますが、中国では郁達夫の小説は非常にポピュラーで、高校
生の教科書の中に入れられているくらいなんです。私は彼の小説が好きで、この「春風沈酔の夜」の他の作品もとても好きなんです。なぜ彼の作品が好きかというと、個人というものがきちんと描かれている。人と人との関係を大きな視点で描くのではなく、綿密に人間関係を描いている。そこが私の好きなところです。「春風沈酔の夜」は私が高校生の時に読んだのですが、この小説は、人と人との感情、なんともはっきり言えない感覚を描いているんですね。愛しているのか?それが愛なのか?そのぼんやりとした雰囲気が、私の創作意識に火をつけたのです。郁達夫という作家は体制の中にある個人の情感をしっかり描こうとした。自我や自己表現をどのようにするかと言うことを重視した作家だったのです。
実は、前作『天安門、恋人たち』も郁達夫の影響を色濃く受けていると言えます。郁達夫は1919年の5.4運動(戦勝国に敗戦国が賠償金を払うというベルサイユ条約に反対して起きた反日、反帝国主義運動)に文学的なアプローチで参加していて、この運動は天安門広場での学生運動を導く最初のものとなったのですが、『スプリング・フィーバー』『天安門、恋人たち』もわずかながらもこれにつながりがあると思っています。この、人の内的生活に穴を開けられる可能性、少なくともそうしたいと思う欲求は、明らかに1949年、中華人民共和国が建設された時に消失してしまいました。それは今でも取り戻すのがむずかしいと思います。中国が自らの視点に捕らわれ、自らに課した自己定義や、全体性への帰属、個人を飲み込む集団志向に留まっている限りは。そしてだからこそ、自らを縛り、隠し、己の欲望やひそかな衝動を否定しようとするのだと思います。
「彼らは自分の生活をうまくコントロールできず、しかも重要な入り口に立っている……私たちも、現在こういったことを経験しています。漂っているかのような、私たちの誰もが抱いている、“アイデンティティを見つけることのむずかしさ”のようなもの。そして、漂うことはそれほど悪いことではないと思います。私は彼らのほんとうの生活に入り込みたかったのです。日常の、ほとんど陳腐な物語の中に。稀代まれなラブストーリーなどを伝える気はなく、単純でありふれた、普遍的なラブストーリーを伝えたかったのです。私たちは言葉もなく、親しみの表し方も知らぬまま、誰かの腕の中に抱かれ、肉体的な愛を交わしたいという欲望に巻き込まれます。リー・ジンが、自分の恋人の愛人であるジャンに尋ねる美しい言葉があります「彼とも、こうして手を?」と。その瞬間、彼女が言っていることは嫉妬を超越しているのです。それはジェンダーにかかわらぬ問いであり、二人の人間の間に存在する愛についてのことなのです。リー・ジンにはそれが二人の人間の間の愛であることがわかっていて、男性どうしの間で起こっているということは重要な問題ではないのです。最初は、女性の肉体も男たちと同じように撮影しました。しかし、絶大なパワーで嫉妬を表す彼女にとっては、肉体を見せることはかえってやり過ぎであることに気がついたのです。
映画の最後、ジャンが胸に大きな花のタトゥーを入れます。肉体に描かれた花のシンボルは重要な意味をなしています。なぜなら、この映画はもうひとつの別の花、水槽に浮かぶ睡蓮で始まるのですから。私たちは映画の重要な瞬間にふたたび立ち返ることになります。彫られた花は登場人物の通る道の一部で、おそらくは作者や監督のものでもあり、あなた自身のものでもあるのだと思います。肌に彫られた花は忘れ去られることがない。中国語ではこう言います。――"世界はひとつの花である“と。