出演
黒沢清

高橋伴明

井筒和幸
林田義行
森章

福原彰

中村勝芳

女池充
池島ゆたか
吉行由実

若松孝二

渡辺護
小川欽也
足立正生
田尻裕司



監督・撮影・編集
藤井謙二郎


プロデューサー
浅井隆


製作・配給:アップリンク
2004/日本/1時間58分/DVCAM/カラー/ステレオ/英語字幕



■監督・撮影・編集■ 藤井謙二郎
1968年東京生まれ。 慶応義塾大学卒業後、一旦は放送局に就職するものの退社し、早稲田大学大学院修士課程にて映像を専攻。在学中より広告カメラマン助手を務める。 記録映画製作会社ディレクターを経て2001年、初の長篇『≒森山大道』(監督・撮影)が劇場公開となる。これまで謎の多かった森山の実像に迫った異色ドキュメンタリーとして評判となる。 翌年、映画『アカルイミライ』の制作過程をつぶさに捉え、俳優陣と黒沢清監督の関係を捕らえたドキュメンタリー『曖昧な未来、黒沢清』でTokyo Filmex 2002 観客賞を受賞。 2004年には新作の裸像制作の過程を日誌的につづりながら、彫刻家“舟越桂”を浮き彫りにした『≒舟越桂』も公開され、話題を呼んでいる。



黒沢 清(1955〜)
「『神田川淫乱戦争』という僕の商業映画デビュー作がピンク映画でした。予算は300万円、撮影日数は3、4日と言われたが、以前にも8mm映画、予算10万円、撮影日数1日でやったこともあったので、全然恐くはなかった。当時ピンク映画の製作会社に言われたのは、一本の映画の中に6、7回絡みのシーンが必ずあること、女優が3人裸になることが絶対条件でした。それさえ守っていればあとはなんでもいいと。形式だけ守って好きな事をやる、それがピンク映画なんだと」

立教大学在学中より8ミリ映画の自主製作・公開を手がける。大学卒業後、 長谷川和彦、相米慎二らの助監督を経てディレクターズ・カンパニーに参加し、83年『神田川淫乱戦争』で商業映画デビュー。 近年の作品に『アカルイミライ』(02)、『ドッペルゲンガー』(03)がある。 現在、日本で最も重要かつ著名な監督として世界の熱い視線を浴びている。
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高橋伴明(1949〜)
「人の金使って、いろんなことを実験することはいいと思うけど、本来のお客さんも大事にしてほしいという。作家とかそういう、えらそうな気分は全然なく、お客さん本位の職人になれたらっていうのは常に思ってたんで、簡単に言えば、いやらしいことばっか考えてねー、『日本の拷問』でそれがちょっとね出てくんだけど。ま、映画である以上、自分の言いたい事を最低限一つは入れていきたいっていうのが常にあったので」

早稲田大学文学部に入学するが、早大闘争に参加し除籍となる。 72年『婦女暴行脱走犯』で監督デビュー。1982年、『TATOO 刺青あり』で一般映画に進出、高い評価を得る。その後、監督集団ディレクターズ・カンパニーへの参加を経ながら、時代を画する作品をコンスタントに撮り続けている。2004年『火火』を監督。
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井筒和幸(1952〜)
「『ピンク映画』というジャンルは何でもできるという意識はあった。 でも実際は自由なことがあんまりやれるような雰囲気ではなかった。アバンギャルドができる訳ではないし、それなら抜け出したいな、と。評論家でも、ほとんどピンク映画なんて無視してたでしょ。」

高校在学中から映画制作を開始。75年、『行く行くマイトガイ・性春の悶々』でピンク映画監督デビュー。81年『ガキ帝国』で一般映画に進出、 『晴れ、ときどき殺人』(84)『二代目はクリスチャン』(85)『岸和田少年愚連隊』(96/ブルーリボン作品賞)『ゲロッパ!』(03)そして大ヒットした『パッチギ』(05)など、抒情性と痛快さをあわせ持つエンタテインメント作品を作り続けている。
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女池充(1969〜)
「ピンクなんでいやらしく撮りたいな、というのはあるんです。『スワッピングナイト 危険な戯れ』ではいやらしい絡みをがんばって撮りました。直接的ないやらしさではAVにかなわないけれども、下半身というより頭をくすぐっていやらしい気持ちにさせられないかと思ってやっています」

サトウトシキ監督などの助監督を経て、『白衣いんらん日記 濡れたまま二度、三度』(97)で監督デビュー。『ハレンチファミリー 寝技で一発』(02) 『スワッピングナイト 危険な戯れ』(02)により2002年度ピンク大賞・監督賞受賞。『花井さちこの華麗な生涯』(03)最新作は『濃厚不倫 とられた女』(04)
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池島ゆたか(1951〜)
「ピンク映画っていうのは制約があるからクリエイトの方向に入っていける。それによって嘘をほんとに見せるという、本質的なことに近付いていけるんじゃないでしょうか。客はほんとだと思って欲情したり、泣いたり、喜んだりするわけで。AVはほとんどの視聴者は商品としてしか見てないけれど、ピンク映画の場合は映画として見に来る客もいる」

演劇「天井桟敷」で役者としてキャリアをスタートさせ、1982年、中村幻児監督『ドキュメントポルノ 人妻売春の手口』でピンク映画初出演。以後、約500本にも及ぶ出演作がある。AVの監督を経て、『ザ・ONANIE レズ』(91)で念願の映画監督でビューを果たす。『超いんらん 姉妹どんぶり』(98)で1998年度ピンク大賞作品賞・監督賞受賞。デビュー以後、年に数本の作品をコンスタントに発表し、エンタテイメント派の監督として観客の高い支持を受けている。
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吉行由実(1965〜)
「基本的に男性向けに作っているんですが、上映会をすると女性がたくさん来てくれるので、女性に向けたものを作りたいという気持ちになってきます。出演している時、セックスにいたる過程が不自然だと感じる作品が多くて、スムーズにいける映画がいいなと思っていたんです。自分で監督してみると結構難しいんですけどね」 「自分が作ってるピンク映画も、自分の中では恋愛映画のつもりなんですけど」

役者修行中の1993年に女優として28歳でピンク映画デビュー。『まん性発情不倫妻』(96)で監督デビュー。『D坂の殺人事件』(98)で、ヨコハマ映画祭助演女優賞をはじめ高い評価を得る。最新作は『せつないかもしれない』(04)
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若松孝二(1936〜)
「タイトルは全部客寄せだよ。『犯された白衣』ってどんな看護婦が出てきて犯されるんじゃないかって思ってさ。だけど観たお客さんがどこか衝撃をうけて帰ってる訳だから。100人観たらそのうちの一割くらい俺に刃を、心臓に突き付けられた気持ちで帰った人だっているだろうしさ」 「撮りたいと思って、こうやってこういうの作りたいと思えばね、映画は誰でも撮れるんだよ。撮った以降が大変。それを上映するのが」

作家性の強い作品で知られる。テレビ助監督を経て、『甘い罠』(63)で、 監督デビュー。『壁の中の秘事』(65)で1965年ベルリン国際映画祭に出品。 「国辱映画」としてマスコミに叩かれるが、凱旋興業では逆に大ヒットを記録。同年、若松プロダクションを設立。『水のないプール』(82)以降、メジャーな存在となったピンク映画から離れる。最新作は『17歳の風景』
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渡辺護(1931〜)
「東映、東宝、松竹、大映、日活というメジャー会社があって、そこの監督はみんな東大や京大卒のエリート。ピンク映画というのは、権力に対してふざけんなーって言って作ってるのが旗印だったからね。エリートはみんな嫌いだよ」「配給会社の言う台詞は決まってましたよ。“映倫と闘ってベットシーンを少しでも多く撮れ”と」

映画館の息子として東京に生まれ、少年時代より映画をむさぼり観る。 早稲田大学卒業後、教育映画・ピンク映画の助監督を経て、1965年『あばずれ』で監督デビュー。代表作に『おんな地獄唄 尺八弁天』(70)、『少女縄化粧』(79)。82年、曾根中生らとフィルムワーカーズを設立、一般映画『連続殺人鬼 冷血』(84)を監督。『紅蓮華』(93)は傑作の呼び声が高い。現在までに約300本の監督作がある。最新作は『エロス番長/片目だけの恋』(04)
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小川欽也(1934〜)
「たまに警視庁の手入れあるんだよね。それが逆に人気になったり、ヒットしちゃうっていう。僕の『妾』っていうのも一本目300万で作って5000万になったからね」

主にテレビ映画の助監督を務める中で、『肉体の市場』(62)のチーフ助監督につく。1964年『妾』を初監督、本作は記録的なヒットとなる。伝説的な怪談映画『生首情痴事件』(67)をはじめ、大蔵映画を中心にコンスタントに作品を発表。現在までに500本以上の監督作がある。04年には監督生活40周年記念作品『淫欲怪談 美肉ハメしびれ』を発表。
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足立正生(1939〜)
「『女学生ゲリラ』の当時、映倫では感じた表情をしなければ、乳首をいじくりまわすくらいならいいと言うんです。男女がフルサイズで重なってるシーンは、両方が全裸だったらだめ。だからごしごしセックスしてるシーンでもなぜか男がパンツはいてたらいいんです」

日大在学中に撮った『鎖陰』が一躍話題となり若くして注目をあびる。若松孝二の助監督を務め、『堕胎』で自らも監督デビュー。以降、大和屋竺らと共に若松プロ作品の多くの脚本を手がける。監督作は『銀河系』(67)、『性遊戯』(68)、『女学生ゲリラ』(69)など。
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田尻裕司(1968〜)
獅子プロダクションで深町章、渡邊元嗣、佐藤寿保、瀬々敬久らの助監督を務め、『イケイケ電車 ハメて行かせてやめないで』(97)で監督デビュー。 『OLの愛汁 ラブジュース』(99)がピンク映画の枠を越え、同年の映画賞のベストテンにランクインされるなど高い評価を得た。最新作に『淫らな唇 痙攣』(04)などがある。
*本作ではメイキングシーンのみの出演
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林田義行(1972〜)
「観客は、テレビもまだなくて、映画館に行くのが一番の娯楽という年代の人たち、50代、60代くらい、いわゆるシニア層という、呼ばれる人たちがほとんどです」
89年、ピンク映画専門のミニコミ誌「NEW ZOOM-UP」を創刊。94年に「P.G」(現「PG」)と誌面を変え再スタート。05年には98号を発行。その活動の一貫としてイベント「ピンク大賞」を主催。そのほか、ライターとして「ピンク・ヌーヴェルヴァーグ」などに執筆。『制服ONANIE処女の下着』(92/佐藤寿保監督)などの脚本作もある。
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森 章(1942〜)
「当時、日活ロマンポルノは制作費を一本2000万、3000万とかけてきましたからね。ところが、我々ピンク映画はそれだけのマーケットがないから、ペイできない。今でもピンク映画が生き残っているのは、低予算、少人数でやっているからです」 「最善期の昭和50年ころは、日本全国に映画館が1600館くらいしかなくて、 そのうち3分の1くらいはピンク映画をやっていた。今はもう100館くらいじゃないですか」

新東宝映画 営業部長。
1959年に国映に入社以来、3社を渡り歩いた業界最古参。
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福原 彰(1962〜)

「ピンク映画のいいところは、2,3年やると監督になれるという。ところが今は監督がどんどん増えて、助監督よりも監督の方が多いという状況が生まれてきていますね。会社の状況を見ると新しい人を入れて育てて行く余裕はないですし」

新東宝映画 プロデューサー。

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中村勝芳(1938〜)

「映像記録というのは、フィルムを管理して、全国の映画館に発送するんです。今はフィルム缶も軽くなったけど、昔のは手作業ですからね。単純な仕事ですし、余計若い子は“いやっ”て話ですよね」

新東宝映画 映画記録部長。一人でこの業務を取り仕切っている。

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