孤高でありながら情熱的なピアノに胸を打たれます。
また未公開の貴重な映像で、演奏家としてだけでなく、
一人の人間としてのグールドを堪能できました。
鼻歌を歌いながらピアノを弾きたくなりました。
亡くなって30年経った今でも、
グレン・グールドってどんな人物だったのだろうと思わせるエネルギーに嫉妬する。
俗人が理解出来ない存在だから、人々を魅了するのか?
イビツな生き様だから、あれほどの繊細で美しい音を生み出したのか?
やはり表現者は、生き様が健全だとツマラナイと思う。
僕にはグールドの日常が特に変わってるようには思えない。
演奏のことが第一なら、常に身体は冷やしたくないし、
各会場でピアノが変わるのだから、せめて椅子くらい気にしたいだろう。
音楽に関係のない華やかなパーティーなど楽しくなかっただろうし、
人里離れた場所からでしか見えない穏やかな世界があることをきちんと知っていた、
まっとうな職人で、とても愛らしい人だったと思う。
それぞれの人の歴史は、それぞれに面白いもの。
世間の「普通」なんて、皆それぞれ何かしら逸脱してるものだろう。
自分自身が、一体、何を「よし」として生きているのか、見つめ直せる映画だと思います。
天才には孤独であって欲しいという、大多数の凡人の願いがある。
細く長い指がピアノの鍵盤を叩き、うっとりとした表情を見せる時、
見る者は一瞬でも彼に成り代わってその官能を味わってみたいと思う。
この映画には彼の凡庸な部分が納められている。
それがよりいっそう孤独を際立たせるのだ。
何度も身体を乗りこなして転生してきた他の人々と違って
グールドは長らく肉体をもたず、「純粋な魂」の履歴ばかりを繰り返してきた。
わたしはそう考えるのが好きだ。
音楽は、「身体能力」なんかじゃない。
第六感どころか、第七感や第八感を使って行うものだ。
だから、グールドには適していた。
それでも、肉体がなければピアノを叩くこともできず、言葉や服装で人の注意をひくこともなかっただろう。グールドの魂にとって、50年間肉体とともにあったことは、とてもいい思い出だったと思う。
肉体ゆえに、凡庸な地球人と同じように「孤独」にも苦しんだ。
別れたコーネリアに復縁をせまり、嘆願したというエピソードはあまりに痛々しい。
宇宙人が、地上の重力に屈した瞬間。重力とは「愛」のことでもあった。
(小田島久恵 2011年10月4日のブログより抜粋)
クラシックとは無縁で30年間位生きて来ましたが
あるときクラシックアルバムを5枚位まず聞くとしたら何が良いですか?と
坂本教授に聞いた所、快く5枚ピックアップしてくれた中にグールドが一つ入っていました。
5枚は全て素晴らしかったのですが、その後グールドは一番リピートしています。
バッハが好きになったのはグールドを聞いてから。
でも彼についての知識はほぼ全く何もなくこの映画を観たのでビックリしました。
脳の筋肉こそ使っても、ジムも練習も大嫌いで、音楽と言えばマシーンに頼るのが当たり前の僕には
こうして映像で観るまで、この方の天才演奏能力の凄まじさに気がついてませんでした。
そして随分この方、映像資料が豊富に残っているなあ、と。
最初、そっくりな俳優さんが演技してるのだとてっきり思っていました。よく出来ている自伝映画だなあ、と。
31歳でコンサート活動リタイヤにもビックリしました
anyway,
天才のドキュメント映画は最高です
元気が出ました