TOP 劇場情報 NEWS DVD/BOOK リンク パリ〜ルーベとは
1896年の開催以来今年で107回目を迎える、フランスのパリ~ルーベ間約260kmを走るクラシック1dayレース。世界五大クラシックの一つであり“クラシックの女王” とも“北の地獄”とも“地獄の日曜日”とも呼ばれる。落車、パンク当たり前のレースとして名をはせているが、その過酷さが数々の名選手を虜にする。
コンピエーニュ城前広場からスタートし、ゴール地点のヴェロドローム(トラック競技場)にたどりつくまでには、計28区間、総延長52.7kmのパヴェを超えなければならない。パヴェは、200mから3.7kmにも及び、パヴェの形状や路上の荒れ具合により難易度は1から5までの星マークで表されている。優勝トロフィーにはパヴェの石が与えられるように、パリ~ルーベの象徴でもある。
敷石に段差があり、角の立った石が無秩序に並ぶ。パヴェ上を走行する際は振動にタイヤをとられ、落車、パンク、マシントラブルが続出する。最も難易度の高いコースが163.5km地点に登場するパヴェ“アランベール”であり、2007年のレースでは優勝候補ファビアン・カンチェッラーラがこの難所で落車している。
時速60kmでパヴェを走破する選手たちは、晴天では巻き上がる砂埃に視界を奪われ、一方雨天ではぬかるみ、泥による滑車に注意する必要がある。
また、パリ~ルーベの伝統の一つに、レース後のシャワーがある。このシャワーを浴びることができるのは、ゴールすることのできた選手だけである。レース同様歴史ある旧式シャワー室には、往年の優勝した選手達の名前が刻まれている。
第105回“パリ~ルーベ”2007年、4月15日開催。全長259.5km、パヴェは計28区間、総延長52.7km。
気温は例年にないほど暑く、27度までに達した。出走192名のうち、完走者は半分の96名。ファビアン・カンチェッラーラ(スイス、CSC)、トム・ボーネン(ベルギー、クイックステップ)の2名が優勝候補に挙がっていたが、30 km地点で逃げ出したスプリンター選手として活躍してきたスチュアート・オグレディが、234km地点で先頭に立ち、その後独走状態となり優勝した。2006年に参戦したが完走できなかった品川真寛 (スキル・シマノ)に続き、日本人として2人目のパリ~ルーベ出場となった別府史之(日本、ディスカバリーチャンネル)は、レース中二度の落車に見舞われ、コース中の難所といわれるアーレンベルグでパンクしたエース格のトーマス・ヴァイクスに自らの車輪を渡すなど、アシストに徹し、結局193km地点で途中リタイアした。 残念ながらこの映画では別府選手の勇姿を見る事はできない。 その別府史之選手は、今年2009年4月12日開催の“パリ〜ルーベ”に、日本人として唯一参戦が決定している。
92年バルセロナ五輪、96年アトランタ五輪の4000m団体追い抜きで銅メダルに貢献。その後95年にフランスのガンでプロデビュー。2001年のツール・ド・フランスでは、序盤ステージでマイヨ・ジョーヌを身にまとうなど、ロードレースではトラックで培ったスピードを武器にスプリンターとして活躍。2004年アテネ五輪ではマディソン競技で金メダルを獲得しており、近年は独走力も身につけて攻撃の幅を広げている。2007年パリ〜ルーベでオーストラリア人として初めて優勝を飾った。
「パリ~ルーベは“いつか出場してみたい”と子供たちが夢見るレースだ。優勝した自分を毎日想像している。 13歳の時に、オランダ人の友達からレースのビデオをもらったのがきっかけで、パリ~ルーベを初めて見た。初めて見るヨーロッパのレースだった。すっかり魅了されてしまったよ。
身体的には向いていなかったが、自分の目標にし、夢中になった。でも自分の願望のためにチームを犠牲にはできない。本当はチームのため、ボーネンやカンチェッラーラがアタックを仕掛けても先頭で封じ込む作戦だったが、途中でカンチェッラーラに“ちょっと調子が悪い”と告げられた。それを聞いた瞬間、まだ僕には勝算があると悟ったんだ。
ラスト20キロまではスター選手に支えられた。でも あんなに苦しかったのは生まれで初めてだったよ。“こんなすごいことは二度とない”と"思い始めたんだ。そしてトップでヴェロドロームに向かいながら、最後の力を振り絞った」
第106回パリ〜ルーベ:2008年、4月13日開催。全長259.5km、パヴェは計28区間、総延長52.8km。 ルーベの天候は曇り時々雨、最高気温11度、最低3度。前夜に降った雨によりコースは濡れ、前年とはうってかわり、パリ〜ルーベらしい泥レースとなった。ヴェロドロームに3人で入るという混戦となり、2005年優勝のトム・ボーネンがパリ〜ルーベ2度目の優勝に輝いた。2位は2006年優勝のファビアン・カンチェッラーラ。