映画ができるまでの時系列
2019年6月
ンアン監督の撮影は6月の天安門事件30周年記念の集会に新しいビデオカメラを試しに行ったことから始まる。数日後の6月9日、100万人の香港市民が引き渡し条例改正案に抗議し街頭に出た。彼は再び撮影に行き、特に目的もなく傍観者としてその様子を記録しその後も抗議が激化する中で撮影を続けた。11日、12日に抗議活動のムーブメントがありその後数週間にわたり多くの抗議活動を目の当たりにし、彼らがなぜ抗議をしているのか、その動悸と情熱に興味を持ち、まず理解しようとカメラを回し始める。
2019年7月
撮影中、自身が催涙ガスを撃ち込まれた時、防護具なしで痛みに苦しみ、呼吸困難になっていたところ、行進していた人々は振り返り傘で作られたシールドの後ろに引きずり込み、誰かが目を洗ってくれて、そして安全な場所へとレスキューしてくれた。この出来事にンアン監督は感動し、自分はただの傍観者ではなく、この社会運動の一員であるということを自覚、映像を撮ることが自分の中で非常に真剣なものに変化していった。
2019年9・10月
ンアン監督は撮影中に放水銃で撃たれ、腕とカメラが青く染まったり、ペッパースプレーを浴び、腕の皮膚が赤くなるといった出来事が続く。
2019年11月
ンアン監督は放水銃で撃たれてしまい、撮っていたカメラのハードディスクが水で損傷、他のメモリーカードは容量が小さいもので撮影に使うことが出来なかったので目の前で起こっている出来事をもうそれ以上、記録し続けることができない状態に陥る。しかし、偶然にもそこに居た外国メディアの記者に声をかけ助けを求め、容量の一番大きいメモリーカードにあった60ギガのデータを記者のラップトップに転送させてもらい、そのメモリーカードのデータを削除して容量を空け撮影を続けた。その外国メディアの記者とメールアドレスを交換していたので、脱出後、彼に連絡をとり映像データをダウンロードするためのリンクを送ってもらう。この全ては、外国メディアの記者とンアン監督との、見知らぬふたりの間にある純粋な信頼から生まれた出来事であった。
2019年11月 - 同月
香港理工大学に閉じ込められていた時警察との衝突があり、それは重大な出来事となる。一部の学生たちは、ンアン監督に逃げることを提案してくれたが、その時は皆、警察が後に報復することを信じていた。閉じ込められている最中、ずっと友人や家族と絶えず連絡を取りながら、多くの人々がンアン監督の脱出方法を見つけようと最善を尽くしてくれた。しかし、ンアン監督はその場に留まりたいと思ったのだ。ある学生は、カメラを手放せば解放されるか、少なくとも逮捕された場合でも警察が映像を見つけることがないだろうと提案してくれたが、ンアン監督は映像を守り、故郷香港のために戦う人々の物語を伝える義務を強く感じていた。香港への共通の愛に基づく非常に強い人々の友情や絆に引き込まれた監督は、彼らを裏切ることはできなかった。
その後、ンアン監督は幸運にも駐車場の裏口から逃げ出すことができた。しかし、その他多くの人々はそのような運には恵まれなかった。
このような出来事が重なり、撮影した映像は多くの人々に救われ、ドキュメンタリー映画が実現した。