「水」を扱った多くの映画が、水が利益のために私物化される問題に焦点を当てているけれど、私は自分だけが水の政治的な力に焦点を絞ったと思っている。この映画は、軍が外国の帯水層や湖のそばに基地を作っていることや、合衆国の大統領が将来の使用に備えて水の豊かな土地をひそかに購入していることや、大統領や市長たちが自らの力とするために水会社と取引していることや、干上がった土地に水を供給することのみを要求するために誘拐まであることを探求している。アラスカの水の利権王で、民間の企業化であるリック・ダヴィッジはこう言っている。「金の問題じゃない、力なんだ。水は新しい力なんだよ」
私はこの映画で、これは生死のかかった問題であることを提起したかったんだ。そこで私は調査をし、3つの驚くべき話を探り出して焦点を当てた。ひとつは、水が資源であることを主張した市民に対する企業の脅しと、ほかに飲み水がなにもない地域でボトル水で利益を得ていること、私たちの環境、つまりは生存に大打撃を与える大量の水輸送についてだ。
それから、淡水化がどうして代替案にならないのかにも突っ込んでみた。また、仮想水として知られる、作物や工業を通して輸出される見えざる水についても取り組んでみた。
水の危機について書かれた決定的な本『「水」戦争の世紀』にオプションを加える方法を選んだんだ。なぜって、もう一度水に関する映画を作ることになるよりも、水に関する決定的な映画を作りたかったからなんだ。成功して観客や批評家に受けるよりも、フランシス・フォード・コッポラが「ありきたりのものを作って成功するより、大きなものに取り組んで失敗したほうがいい」と言ったようにね。
この映画は、3歳の息子が「のどが渇いた」と言って起き出してきた時に作ることになった。水の危機と同じくらい重要な問題を取り上げて、それをつけ加えるのもいいだろう。多くの問題が水にかかわっているからだ。私が試みたのは、人類の生存の問題に絞り、ほかの論争となっているすべての問題は避けることだった。私はただの労働者階級で、2杯目の水が飲めるかどうかを息子に心配させたくないだけなんだ。それだけだ。
水にかかわる戦いに勝つためには、闘争を整理し、人類の生存には水が必要であることに焦点を絞ることが大事だろう。『「水」戦争の世紀』ほど、徹底してそれができている映画があるとは思えない。
多くのドキュメンタリーが大問題を提示して、「さあ、外に出ていって、問題に抗議しよう」と言うけれど、私は抗議“について”の映画が作りたかったんじゃない。私は抗議“そのもの”である映画を作りたかったんだ。
私は自分で制作し、脚本を書き、監督し、撮影し、音声を記録し、編集したんだよ。なにか問題があるとしたら、責められるのは自分だけだ。このような一連の創作管理は、学校で短編映画を作って以来したことがなかった。とてもいい経験になったし、これからはもっと自分でプロデュースできればいいと思うよ。
映画制作を始めてすぐに、私はドキュメンタリーを作るには、大本まで行かなければならないなことを悟った。そのため、メキシコで番人を買収しなければならなかったし――政府は畑を汚水で灌漑しているところを撮影させたくはなかっただろう――ケニヤのナイバシャ湖で、貴重な湖の水をヨーロッパのバラ栽培者から守ろうとして殺された、ジョアン・ルートという別のドキュメンタリー作家についても調べなければならなかった。そのため私は、女たちが毎日何キロも離れたところまで水を汲みに行き、白人の誘拐は日常茶飯事のアフリカの奥地まで行かなければならなかった。
中でも一番の収穫となったのは、私のドキュメンタリー界でのヒーローであるマーク・アクバーに出会えたこと。たとえこの映画が失敗したとしても、ここで得たすべての経験は、価値のあるものだった。今後もドキュメンタリーを作ったり、あるいは劇作品をつくることになったとしても、『「水」戦争の世紀』を自分の最も重要な作品とみなすことに間違いはないだろう。