音楽:ウルリヒ・ロイター、ダミアン・ショル/音響:マティアス・レンペルト、フーベルトゥス・ミュル/
アーカイブ・プロデューサー:モニカ・プライシュル
出演:ヨーゼフ・ボイス、キャロライン・ティズダル、レア・トンゲス・ストリンガリス、
フランツ・ヨーゼフ・ファン・デア・グリンテン、ヨハネス・シュトゥットゲン、クラウス・シュテーク
学術監修:山本和弘 字幕翻訳:渋谷哲也 配給・宣伝:アップリンク
白黒テレビに映し出される討論番組でフェルトの帽子を被った一人の芸術家が苛立ち、叫ぶ。「今は民主主義がない、だから俺は挑発する!」
彼の名前はヨーゼフ・ボイス。初期フルクサスにも参加し、“脂”や“フェルト”を使った彫刻やパフォーマンス、観客との対話を作品とするボイスの創造(アート)は美術館を飛び出し、誰もが社会の形成のプロセスに加わるべきだと私たちに訴える。既存の芸術が持つ概念を拡張するその思想は、世界中に大きな議論とセンセーションを巻き起こし、「社会を彫刻する」という、貨幣経済や権力に管理された社会を創造性によってつくり直そうという試みは、バンクシーを始めとする現在のアーティストにも脈々と受け継がれている。
本作は膨大な数の資料映像と、新たに撮影された関係者へのインタビュー映像で創られた、ボイスの芸術と知られざる”傷”を見つめるドキュメンタリー映画である。
ボイスの肉声やパフォーマンス映像は、30年以上前のものであるにもかかわらず、生々しく、力強い。今、ボイスの言葉たちが、時を超え、再び私たちを挑発するー 。
ヨーゼフ・ボイスは、戦後ドイツで、「芸術概念の拡張」による革命を叫んだ芸術家だ。腕に抱いた死んだ野ウサギを絵画に触れさせ、その説明を行う「死んだうさぎに絵を説明する方法」(1965年)、アメリカ先住民の聖なる動物“コヨーテ”と共にNYのギャラリーに籠り1週間暮らす「私はアメリカが好き、アメリカも私が好き」(1974年)など、そのセンセーショナルなパフォーマンスや、テレビの討論番組で繰り広げた評論家たちとの挑発的な議論から、異端のアーティスト、トリックスター扱いをされた。
ボイスは自ら「芸術概念の拡張」を体現した。1971年、教授をつとめるデュッセルドルフ芸術アカデミーにて「基本的人権に反する入学許可数の制限は、公平に解決するべき」と、学生らともにアカデミー事務局を占拠。1979年には、エコロジー運動、反原発・反核運動、学生運動、フェミニズム運動を背景に結成された政党「緑の党」に参加。
このようなボイスの試みは、現実社会に積極的に関わり人々との対話などを通して社会変革をもたらそうとする「ソーシャリー・エンゲージド・アート」の登場など、現在も美術界に影響を与え続けている。
第二次世界大戦勃発の年、ボイスは18歳だった。ドイツ軍に徴兵され空軍に配属となったボイスは、乗っていた飛行機が敵軍の迎撃により墜落し、頭蓋骨を骨折するなど大きな傷を負う。ボイスはこの経験を「タタール人に救出され、体温維持のため脂肪を塗りフェルトでくるむという治療によって一命をとりとめた」と語る。このエピソードは真偽が疑われているが、彼の作品には“脂肪”と“フェルト”が繰り返し使用されている。
帰還後ボイスは大学で彫刻を学ぶも、戦争のトラウマから2年にわたる重い鬱病を発症させてしまう。そんなボイスをヴァン・デル・グリンテン兄弟は自宅に招く。部屋に籠りきる日々を送るボイスを見かねた、グリンテン兄弟の母が彼を訪ねた際、ボイスは「芸術は終わった」と打ち明けている。
鬱からの回復後、彼はセンセーショナルなパフォーマンスで世界中を騒がせたが、それらの創造の根幹には、自身の傷、そして社会の傷への眼差しがあったのだ。
1921年ドイツ、クレーフェルト生まれ。自然を愛し、医学の道を志していたが、十代の前半に彫刻家ヴィルヘルム・レームブルックに強い衝撃を受け、デッサンを描き始める。1940年にドイツ空軍に志願し、シュトゥーカ急降下爆撃機に無線オペレーターとして搭乗し第二次世界大戦中の東部戦線に参加した。1944年5月、クリミア半島上空でソ連軍に撃墜され負傷。ボイスは遊牧民のタタール人(クリミア・タタール人)に助けられ、体温が下がらないように脂肪を塗られてフェルトにくるまれたため助かったと証言している。復員後、人間や植物などを題材にした水彩画やドローイングを描き始め、1947年、デュッセルドルフ芸術アカデミーに入学。
1960年より脂肪やフェルトを素材にした立体作品やパフォーマンスを発表。1961年、自らが学んだデュッセルドルフ芸術アカデミーの彫刻科教授になると、自分のクラスは入りたい者すべてが入れるべきだと、定員で入れなかった学生を自分のクラスに受け入ることを決める。反発する学校当局と衝突し、1972年に解雇。抗議する学生を味方に大学との訴訟に入り、1978年勝訴。教授には戻れなかったが、使用していた教室を拠点に自由国際大学を立ち上げる。1962年、フルクサスのメンバーに参加。ナム・ジュン・パイクとコラボレーションを行う。
1976年、連邦議会選挙で『独立したドイツ人の運動連合』の候補として出馬。1982年のドクメンタ7で「7000本の樫の木」プロジェクトを実施。また1982年にはミュージシャンとしてシングル「Sonne statt Reagan(レーガンの代わりに太陽を)」をリリース。「レーガレーゲン(雨)とレーガンをかけ、当時のアメリカ合衆国レーガン大統領を風刺したナンバー。ミュージック・ビデオでは、ミュージシャンを従え熱唱するボイスを見ることができる。日本では1984年に西武美術館で個展を開催。来日し、東京藝術大学の体育館では1000人の学生との対話集会を行うほか、スーパーニッカのCMにも出演。「ヨゼフ・ボイス氏は、自らの自然保護活動の推進のために出演しました。」(当時の表記はヨゼフ)というコピーとともに森林のなかでグラスを持つボイスが映されるものだった。1986年、デュッセルドルフにて没。
1945年生まれ。ロンドン大学のコートールド美術研究所で美術史を学び、1970年からガーディアン紙で美術批評を執筆。1972年、ホワイトチャペル・ギャラリーでボイスが“インフォメーション・アクション”を行っている時に彼と出会った。その後、1974年の初のアメリカでの講演旅行や1975年ニューヨークでの『アメリカが好き、アメリカも私が好き』などに同行し、英語圏のアートシーンにボイスを紹介。「20世紀で最も創造的な関係を結んだアーティストとライター」と形容される。ボイスに出会ってからの5,000枚の写真を所有するほか、世界各地のボイスの展覧会のキュレーターを務めている。
1934年生まれ。ボンとミュンヘンで考古学と美術史を学んだ。1960年代初頭からドレスデン美術館の古代遺物のセクションに勤務。1972年5月の「ドクメンタ」でボイスと知り合い、アートが社会の中心だという彼の進歩的な考えやアイデアを生み出す独特の手法が、生涯の友情とコラボレーションを生んだ。カッセルでFIU(自由国際大学)を創設し、長年、イベントのホスト役を務めた。ボイスとアッハベルガー・グループとともに「緑の党」を共同で設立し、市議会議員として活動した。また彼女は「ドクメンタ」の理事も務めている。
1933年生まれ。1940年代後半、ボイスの初期の作品を持っていた兄からボイスを紹介される。1953年に両親の農場でボイスの展示会を開催。ボイスが精神的に危険な状態だった1957年、自分たちの家に呼び、数週間滞在させた。その後もボイスの絵画やその他の作品とコレクションをし続け、その数は5,000点にも膨らんだ。それらは1993年、シュロスモイランド美術館に寄贈され、その多くのものは現在、美術館で一般に公開されている。
1945年生まれ。ミュンスターでヨゼフ・ラッツィンガー(のちのベネディクト十六世)に神学を学んでいたが、1966年、デュッセルドルフ美術アカデミーでヨーゼフ・ボイスに習うために退学。1980年から86年までボイスが共同設立者となったFIU(国際自由大学)の学科主任を務めた。1987年に『自由国際大学 社会彫刻のための拡大された芸術概念の機関―自由国際大学 理念、歴史、活動の記述―』を上梓。
1938年生まれ。1965年に出版社「Edition Tangente(後にEdition Staeckと改名)」を設立。ボイスにまつわる書籍を出版。自身もアーティストとして1970年初頭より政治風刺のポスターで知られるようになる。1974年のボイスの初めてのアメリカ旅行にも同行するなど、ボイスとは長きにわたり交友関係を結び。ボイスの死後、1986年にデュッセルドルフ芸術アカデミーから彼の後継者に指名された。ボイスは彼を自分の学生の1人と考えていたが、シュテークはアカデミーで学んだことはなかったという。
1959年、シュトゥットガルト生まれ。ベルリン自由大学で心理学を学んだ後、1985年から1989年の間、ベルリンのアートセンター、キュンストラーハウス・ベタニエンでクシシュトフ・キェシロフスキの監督コースを受講。以降、映画や舞台の脚本執筆活動を続けるかたわら、ベルリンのdffb(ドイツ映画テレビアカデミーベルリン)で講義を行っている。1992年、テレビ・ドキュメンタリー『Winternachtstraum』で長編デビューを果たした後、イスラエルの劇団を描くドキュメンタリー『Balagan』(1994年)でドイツ映画賞を受賞。1996年、80年代に命を落とした3人の同級生を題材にしたパーソナルな作品『Die Überlebenden』を発表。2007年、山形国際ドキュメンタリー映画祭にて上映された『ブラック・ボックス・ジャーマニー』(2001年)は1989年に殺害されたドイツ銀行の有力者ヘアハウゼンと、その事件の犯人でドイツ赤軍メンバーのグラムスという対象的な出自を持つふたりをテーマにドイツ史を描き、高い評価を得た。
ー 多くの芸術家や当時の仲間たちが「ボイスは20世紀で最も偉大な芸術家だった」と言っていますが、私にとってボイスは21世紀になっても依然として最も偉大な芸術家です。
「周囲に壁を作ったり、恐怖に縛られたりしてはならない。みんなで意思決定の仕組みを築こう。人間にはその力がある」という言葉は、特に今こそ耳を傾けるべきメッセージです。よく引用される彼の言葉に、「人はみなアーティストである」というのがあります。誰もが社会の中にあって、様々な社会的プロセスの形成に関わる能力があると彼は唱えているのです。
"痛みというトラウマ"が彼の人生をまとめる核となりました。彼には、死にかけた経験によるトラウマが3つあります。この状況を克服するには、ものすごいエネルギーを費やしたはずです。そこで彼は、再生というコンセプトを個人の体験から実社会へと移し替えた、変容させたのだと思います。
監督・脚本:アンドレス・ファイエル/撮影:ヨーク・イェシェル/編集:シュテファン・クルムビーゲル、オラフ・フォクトレンダー/
音楽:ウルリヒ・ロイター、ダミアン・ショル/音響:マティアス・レンペルト、フーベルトゥス・ミュル/
アーカイブ・プロデューサー:モニカ・プライシュル
出演:ヨーゼフ・ボイス、キャロライン・ティズダル、レア・トンゲス・ストリンガリス、
フランツ・ヨーゼフ・ファン・デア・グリンテン、ヨハネス・シュトゥットゲン、クラウス・シュテーク
2017年/ドイツ/107分/ドイツ語、英語/DCP/16:9/5.1ch/原題:Beuys
学術監修:山本和弘 字幕翻訳:渋谷哲也 配給・宣伝:アップリンク
COMMENT
よけいな説明が少なく、しかも洗練されたサウンドデザインが施されていて、よいドキュメンタリーは、それ自身がアートだと思う。
今まで知らなかった、ボイスの繊細さ、傷つきやすさと真剣さ、夢想家と理性の人という両面を知ることができた。そして「傷」というのがボイスの芸術を解く鍵ではないかということも。
資本主義が終焉を迎えている今、その先を見据えた経済・芸術を唱えたボイスの思考を知る、格好のドキュメンタリーだと思う。
坂本龍一
音楽家
誰とでも交流ができて誰でも表現ができる時代になったはずなのに、いつの間にか目先の数字に一喜一憂するようになって久しい。ボイスの過激な発言やセンセーショナルな表現はそれらとは一線を画す。
対話と思考への希求と人間誰しもが成長することができるという信念は、2019年に聞いても古めかしさは感じないし、未だに必要とされている。時代の境目に改めて彼の声に耳を傾ける。
tofubeats
音楽プロデューサー/DJ
傷を負うことは生きるひとつのエネルギーとなる。有形、無形の傷を手がかりとしてボイスは作品を創り、自分自身をも作品にしてしまった。彼の眼差しのまじめさと危うさは芸術表現の真実にもっとも近い在り方を示し、美術の普遍的な問題を明らかにする。
石内都
写真家
ボイスは「あらゆる人は芸術家」と言った。それは誰もが絵描きになれるという狭い話ではなく、誰もが「創造力」を持っているということ。
だからこそ、その「創造力」をあらゆる分野で発揮し、社会を彫刻するように作り直していこうと呼びかけたのだ。今の時代、改めて、彼のその先見性に驚かされるのだ。
宮島達男
現代芸術家
ボイスが示すある例に私達はどのような例を持って対話しているだろうか?
映し出されたボイスの姿は30年以上前であるが、現代を生きる私達はボイスと対話することさえできていないのかもしれない。
しかし、本作によって、今は亡き芸術家と対話する可能性を残された私たちはとても幸運だ。
そろそろ、私たちも対話を始めよう。
和田彩花
アンジュルム/ハロー!プロジェクト
過激!エキセントリック!
The New York Times
アンドレス・ファイエルによる、この貴重なアーカイブ・ドキュメンタリーを見逃してはならない。
Filmmaker Magazine
部屋の中でボイスがアートを作る姿は、
それら全てが生き返るような感覚に陥る。
Variety
アーティスト、ヨーゼフ・ボイスの神秘的な力が、生々しい存在感と活き活きとした呼吸から伝わってくる。
パフォーマンスアート、行動主義、彫刻、インスタレーション、芸術教育学― 。ボイスが戦争をきっかけに開拓した新たな芸術の定義は、今現在でも幅広く引き継がれている。
Hyperallergic
第二次世界大戦後の最も重要なドイツ人アーティストであり、彼の影響力はアンディー・ウォーホルに匹敵する。
MoMA
(ニューヨーク近代美術館)