一緒にこの映画を作るはずだった友人・ヴァンサンが突然命を絶った。あれから10年間、監督は「ろう者の存在を知らせたい」という彼の遺志を継ぎ、この映画を完成させる。
ニコラ・フィリベール監督の傑作ドキュメンタリー『音のない世界で』(1992年)に登場していた、耳に大きなヘッドフォンをあて、声の出し方を教わる子どもたち。
「話すこと」を求められた彼らの、その後の物語ともいえる本作は、ろう者の存在に再び光をあて、彼らが抱える言葉にならない複雑な感情に“目”を澄ます。
ニコラ・フィリベール監督の傑作ドキュメンタリー『音のない世界で』(1992年)に登場していた、耳に大きなヘッドフォンをあて、声の出し方を教わる子どもたち。
「話すこと」を求められた彼らの、その後の物語ともいえる本作は、ろう者の存在に再び光をあて、彼らが抱える言葉にならない複雑な感情に“目”を澄ます。
1880年ミラノでの「第2回国際ろう教育国際会議」で手話を禁ずる決議が採択され、2010年バンクーバーで行われた「第21回国際ろう教育国際会議」でその手話の禁止を取り消す決議までの130年間、手話は各国から排除されていた。「この映画で描かれている問題はフランスだけではなく、世界各国で起きている」というレティシア監督の言葉通り、本作はモントリオール映画祭など数々の映画祭で上映され、観客の価値観を大きく揺さぶり、ろう者の強い共感と圧倒的な支持を得た。日本では2017年4月に東京ろう映画祭で『新・音のない世界で』として上映され大きな成功を収めた。
聴者。本作の主人公。ドキュメンタリー映像作家。若い時に手話に興味を持ち、デフクラブに「ろう者の友達募集」の広告を出したことがきっかけでヴァンサンと知り合う。ヴァンサンから、ろう者が生きづらい社会の現状と彼の苦悩を聞き、ろう者のことを世間にもっと知ってもらうため、二人でドキュメンタリー映画を作る約束をする。
ろう者。本作のもう一人の主人公。10年前にこの世を去った。両親は聴者。かつてフランスで主流だった口話教育で育つ。手話はあまりできなかったが、18歳の時に引っ越したパリで友人達の影響から上達した。手話劇の俳優を志し、ろう学校の教師も目指していた。ゲイであり、LGBTQ関連の活動に従事した。ステファヌの兄と友人で、彼の家によく遊びに行っていた。
ろう者。手話講師。レティシアに手話を教えた初めてのろう者。ヴァンサンとは友人として小さい時から共に過ごしてきた。ろう者の両親のもと手話で育つ。手話通訳者のファビエンヌと二人の聴者の子どもと暮らす。オーヴェルニュ地域には彼以外にろう者の手話講師はいない。
そこにある、理不尽な苦しみも、かけがえのない幸福も、色をつけずに映し出される。
これは、聴者のレティシア監督がろう者の友人たちと共生している、豊かな実例の記録なのだ。
スクリーンの全面から、この姿を見てほしい、私たちは誰だって共生できるのだ、という歓喜が、厳しい現実を押しやるように、あふれてくる。
この作品の存在そのものが、希望だ。
私はフランスで”生きていくため“にフランス語を必死に勉強しました。そう、生きていくために……。
手話はろう者が“生きていくため”に必要な言語です。
それが130年、禁止されていたなんて……。
静かに映像が流れていきます。手話は理解ができないけれども、そこから音が発生しているのではないかと思うほど手や指の動きに目と耳が吸い寄せられました。
いつの間にか、私の手も動いていました。
目の前にありのままのろう者の姿が映し出されます。聴者である私が想像したこともない悲しみ、痛み、喜びがそこにはありました。
ヴァンサンの思いがどうか多くの人に伝わりますように……。
この映画には「超自然的な力に支配されて、人の上に訪れるめぐりあわせ」としての運命に導かれて生きる人々が鮮烈に映っている。
そしてその背景には、手に運命を宿らせている世界中のろう者たちが並んでいる。
ぼくもまたその一人だ。
言葉以上に説得力や感情が伝わるような、そんな力がある気がします。
映画の中で、手話の絵本の読み聞かせのシーンがとても印象的でした。
手から繰り出される物語は、目の前にその情景が現れたような、とても臨場感がありました。
手話の禁止、口語の推奨、制圧や差別。知らない歴史ばかりで衝撃的でした。
学校で英語の勉強をするように手話がたくさん使われたり、私たちからも寄り添っていけるようになりたいです。
聴者の視点から聞こえ話せるようになれと、手話を封印されたろう者たち。
その怒りが爆発する。
ろう者の心の葛藤を知らない人工内耳推進耳鼻科医にぜひ観てもらいたい。
表情を含めた豊かな表現力。仲間や家族といる時には楽し気に、時にはユーモラスに。
手話ポエムのパフォーマンスはエレガントそのもの。
切実な思いを訴える時の、その感情の深さには圧倒される。
まさしく手話は彼らの「言語」なのだ!
生きる上での障壁はあるけれど耳が聞こえないこと自体は障害ではない。
手話のコミュニティが果たす役割は聴者が思い描いている以上に大きな意味を持ち、ろう者の心の中にある渇望が鮮明に。
聴者と共に社会の一員として人生を生きたい。
ただ、それだけのために長い道のりを歩まなければ。
でも絶望はない。
私たちは常に対等であるという希望に溢れた素晴らしい作品。
手話の教師であるステファヌは、手話は、もっとも始原的な言語で人間の存在と同じくらい古いコトバだという。
現代は、あまりに言語に頼るあまり、体現されたコトバを忘れた。それだけではない。
手話は、手が動くたびに巻き起こる風のコトバでもあり、話す者の肉体から湧き起る息のコトバでもある。
いま、私はこう言いたい。手話は、人間の生命と深くつながったいのちのコトバだと。
だからこそ、生ける者だけでなく、亡き者たちにも、まっすぐに届く。