「物事を“邪悪”と“神聖”にわけるのはナンセンスだ。
私は複雑きわまりない現状に対する人間の反応を描いているのです」
ハニ・アブ・アサド(監督)
『パラダイス・ナウ』はパレスチナ人監督ハニ・アブ・アサドがイスラエル人プロデューサーと手を組み、ヨーロッパ各国との共同製作というかたちで作りあげた作品である。
ゴールデン・グローブ賞受賞により大きな波紋を呼び、第78回アカデミー賞外国語映画部門にノミネートされたが、アカデミー賞の授賞式前には自爆攻撃により亡くなった人のイスラエルの遺族たちから、テロを支持する映画ということでノミネート中止の署名運動が起きた。
アカデミー賞は、これまでパレスチナは国家ではないと言う理由でパレスチナ人監督のエリア・スレイマンによる『D.I.』を選考対象から除外してきたが、今回はヨーロッパ各国との合作と言う事でノミネートされた。
映画は、パレスチナの幼馴染みの二人の若者が自爆攻撃に向かう48時間の葛藤と友情を描いた物語で、同じくアカデミー賞にノミネートされた『ミュンヘン』がユダヤ人監督スピルバーグによる、巨費を投じて製作したイスラエル人テロリストのエンターテインメント作品であることに対して、今迄語られる事のなかった自爆攻撃者の葛藤と選択を描いている。
撮影はパレスチナ暫定自治区のヨルダン川西岸地区の町ナブルスで行われ、映画を誤解した武装勢力に脅されたり、イスラエルからは「撮影スタッフに死傷者が出ても、同軍には一切責任がない」との誓約書を求められたり、困難がつきまとったという。
世界各国の映画祭で上映され、好意的、批判的両方の意見を強く引き起こしているが、アブ・アサド監督は「物事を“邪悪”と“神聖”にわけるのはナンセンスだ。私は複雑きわまりない現状に対する人間の反応を描いているのです」と語っている。
パレスチナの歴史とパレスチナ問題
パレスチナとは通常、現在のイスラエル、ヨルダン川西岸地区及びガザ地区からなる地域を指す。この地域は第一次大戦まではオスマン・トルコ帝国の一部であったが、同大戦後、1922年に英国の委任統治領となった。
ヨーロッパでは19世紀末から、パレスチナの地にユダヤ人のための郷土を建設するというシオニズム運動が起こり、パレスチナにおける土地の取得や入植が推進された。ヨーロッパ各国での政情不安や世界恐慌、ユダヤ人迫害等を受け、ユダヤ人のパレスチナへの移民は急増、次第にユダヤ人、パレスチナにもとから居住していたアラブ人(すなわちパレスチナ人)、英国委任統治当局の間で緊張が高まり、しばしば衝突に発展するようになった。解決に窮した英国による要請を受け、国連は1947年11月に総会でパレスチナ分割を決議(国連決議181)するが、少数派のユダヤ側にパレスチナの主要地域を含む半分以上の領土を割り当てるというこの分割案は、パレスチナ人および近隣アラブ諸国にとって受け入れがたいものであった。
1948年5月14日、英国がパレスチナから撤退し、委任統治が終了すると同時に、ユダヤ人はイスラエルの建国を宣言。翌日エジプト、トランスヨルダン、シリア、イラク等のアラブ諸国はイスラエルへの進撃を開始し、第一次中東戦争(〜1949年7月)が勃発した。
第一次中東戦争はイスラエル側の勝利に終わり、東エルサレムを含む西岸地区をトランスヨルダン(1950年にヨルダン・ハシミテ王国と改名)、ガザ地区をエジプトが制圧した外は全てイスラエルの領土となった。その結果、70万人以上のパレスチナ人が故郷を追われ、難民として西岸・ガザ両地区あるいは周辺諸国へと離散していった。一方でイスラエル領内に留まったパレスチナ人も少なくなく、現在ではイスラエル人口のおよそ2割にあたる100万人以上がイスラエル国籍のパレスチナ人、いわゆるアラブ系イスラエル人として暮らしている。(イスラエル国内の町ナザレ出身のハニ監督もその一人)
1967年、第三次中東戦争で周辺アラブ諸国に圧勝したイスラエルは東エルサレムを含む西岸地区及びガザ地区を占領、再び大量のパレスチナ難民が発生した。国際社会はこの新たな占領を非難、国連安保理決議第242号によって占領地からの撤退と難民問題の公正な解決を求めた。1964年にパレスチナの解放を目指して結成されたパレスチナ解放機構(PLO / Palestine Liberation Organization)の第三代議長にファタハ(正式名称はHarakat al-Tahrir al-Watani al-Filastini / パレスチナ民族解放運動)の議長だったヤーセル・アラファトが1969年に就任すると、PLOは軍事・外交両面から様々な手段を通じてパレスチナ問題を国際的にアピールし、同問題の解決を訴える主体となる。
1982年にはイスラエルによるレバノン侵攻により、ベイルートのPLO本部はチュニジアへ移転を余儀なくされ、またPLO内部でも対立が生じるなど、パレスチナ問題の解決は遠のきつつあると思われた。そのような中、1987年末から西岸・ガザの両占領地でパレスチナ住民による反イスラエル蜂起(インティファーダ)が起こり、PLOも1988年にはパレスチナ全土の解放から、西岸地区およびガザ地区にパレスチナ国家を建設してイスラエルと共存するという路線への転換を行うなど、新たな機運が生まれた。
中東和平プロセス
湾岸戦争後の1991年10月、当時のブッシュ米大統領主導により、マドリード(スペイン)において中東和平会議が開催された。パレスチナ側はヨルダンとの合同代表団として参加し、二国家共存によるパレスチナ問題の政治的解決を訴えたが、イスラエルのシャミール・リクード政権はパレスチナ側への譲歩を拒否。交渉は停滞した。
1992年6月、イスラエルはラビン・労働党政権に交代、停滞する交渉の打開策として、オスロ(ノルウェー)を拠点にPLOとの直接秘密交渉を開始。その結果、1993年9月、イスラエル・PLO間の相互承認がなされ、ワシントン(米国)においてイスラエルとPLOの間で「暫定自治原則宣言」(オスロ合意 I )が署名された。
オスロ合意に基づき、1994年5月、「ガザ・エリコ先行自治協定」(カイロ協定)が署名され、イスラエルは両地区から撤退し、PLOはパレスチナ暫定自治政府(Palestinian Interim Self-Government Authority(PA))を樹立した。その後、1995年9月、ワシントンにおいて「暫定自治拡大合意」(オスロ合意 II )が署名され、イスラエルは西岸地区のラーマッラーなど主要6都市及び人口密集地からの撤退を始める。
しかし、1995年11月にイスラエルのラビン首相が和平反対派の過激派ユダヤ人に暗殺されると中東和平プロセスは停滞、さらには2000年9月にイスラエルのシャロン・リクード党首がイスラム教徒の聖地でもあるエルサレムの「神殿の丘」への訪問を強行した。これを契機にイスラエル・パレスチナ間で大規模な衝突(第二次インティファーダ)が発生し、オスロ合意は破綻、危機感を抱いた国際社会は2003年、アメリカ、EU、ロシア、国連の4者による新たな中東和平案のロードマップをイスラエル、パレスチナ双方に提案した。
現状
2004年に死去したアラファトを継いでマフムード・アッバースがPLO議長およびパレスチナ暫定自治政府(PA)大統領に就任したものの、期待された和平プロセス再開は進展を見ないまま、2005年9月にイスラエルはガザ地区から一方的に撤退した。だが地区への出入りはイスラエルのコントロール下におかれ、その実態は占領からの解放とは程遠い。他方で、パレスチナ側との交渉には応じない構えを崩さないイスラエル政府が、国際司法裁判所によって国際法違反の勧告的意見が出されているにもかかわらず、西岸地区に深く食い込む形での分離壁の建設を続けていることは、同地区内の大規模入植地や水源地帯を手放す考えがないことを示している。これに対しパレスチナ自治政府は和平交渉を通じた独立国家樹立という方針を公式には掲げているものの、パレスチナの諸勢力の中には自爆テロやロケット弾のイスラエル市街地への発射を含む武装闘争を続けるグループも存在する。そうしたグループによる攻撃に対し、イスラエルは暗殺や懲罰的な住居の破壊といった圧倒的な武力で臨んでいる。
2006年1月、パレスチナ立法評議会選挙で対イスラエル武装闘争継続を標榜するハマス(正式名称はHarakat al-Muqawama al-Islamiya / イスラム抵抗運動)が過半数の議席を獲得し、3月、ハマス幹部であるハニーヤ新パレスチナ評議会(PLC)議員を首相とするハマス主導の自治政府内閣が成立すると、ハマスをテロ組織に指定する欧米諸国などが援助を凍結。更には6月にガザ地区で発生したパレスチナ武装勢力によるイスラエル兵士の拉致事件を契機にイスラエル軍がガザ地区に再侵攻、現在でもパレスチナへの軍事行動が続き、多数の民間人が犠牲になっている。他方パレスチナ人の間でも、PLO主流派のファタハとハマスの間での内部抗争が激化し、パレスチナ人同士の衝突で死者が発生している。パレスチナ内部の足並みを揃えるため、アッバースパレスチナ暫定自治政府(PA)大統領とハマスとの間でパレスチナ諸派が参加する「挙国一致内閣」樹立に向けた取組も行われているが、先行きは不透明だ。
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