「非・直線的なるもの」
現代っ子は、頭でっかちで身体性に欠ける。そんな類いのことは昔から散々言われてきた。更に昨今の猛烈なインターネットの普及により、たとえ机の前で不動明王と化していても、膨大かつ多様な情報がクリック一つで手に入ってしまうハイテク時代。頭と体、或いは知識と行動の肉離れは、誰もがふとあちらこちらで感じていることだろう。
そんな時代に、甲野善紀氏のドキュメンタリーを撮る。何ともタイムリーではないか。朗らかに明解な痛快作誕生か?などと撮影前、つい邪な思いが頭をよぎる瞬間が自分でもあった位だが、やはりと言うべきか、そうは問屋が卸してくれなかった。
撮影が進めば進む程、氏のやりたいことが手に取るように分ってくる、などという甘い期待は全く外れ、むしろ複雑極まりない甲野善紀ワールドが益々アメーバのように広がり、つかめたかと思う次の瞬間には、するりと遠い彼方へと抜けていってしまう。様々なインタビューを試み、多くの言葉を手にしても、それは同じだった。一応、僕はドキュメンタリーの監督なのである。にも拘わらず、この事態はなんということか・・・焦った。ひどく考え込んでしまい、夢にまで撮影現場が出てきて悩まされることも度々あった。が、当然の展開でもあるのだが、やがて気づいた。言葉で理解しようとするから無理が出る。「氏が追求しているのは、要はこういうことで、それは歴史的社会的な観点からするとああいうことに・・」などと一言で、或いは400字×5枚とかで直線的な筋書きを仕立て上げ「安心」しようとするお利口さんな癖がいけなかったのだ。ただ見つめ、そして耳を傾けること。そこから身体を通して「こんな感じ」として理解すること。その視点に立てば、やはり以前より確実に甲野善紀という人を理解している自分がちゃんといたのである(因みに夢で垂直離陸の特訓を受けている最中、実際に寝床の壁を膝蹴りで打ち抜いてしまったことも)。
知ることとは、言葉で直線的に語れるということではない。撮影を通じて、甲野さんからリアルにそれを教えられたわけだった。
ふと思えば、この映画に登場して下さった関係者の皆さんも、言葉の上では「分からない」を連発しているではないか。しかしその表情は、甲野善紀という型破りな人を、体感で理解しているという確信と喜びに満ちている。
というわけで、ここでは「何をか言わんや」などとはどうぞ考えず、筋書きなど存在しない日常会話のように、ただただ氏の世界を、見て、聞いて、お感じ下さい。